大河ドラマ西郷どん(せごどん)
紀尾井坂の変
西郷隆盛の最期をもって終了する大河ドラマ西郷どん(せごどん)。
西郷とは違う道を進むことを決め、西南戦争を鎮圧した大久保利通でしたが、翌年には志半ばであっけなく暗殺されてしまいます。
この記事では、100年先を見据えた国づくりのため、友を切り捨てる判断を下した冷徹な英雄・大久保利通の最期「気尾井坂の変」について簡単に紹介していきます。
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気尾井坂の名前の由来
紀尾井坂の変
事件当日
1878年(明治11年)5月14日早朝、大久保利通は福島県令・山吉盛典の訪問を受け、自身の考える日本の30年計画について述べていた。
大久保利通の30年計画
①明治元年~10年:戊辰戦争や士族反乱鎮圧など反抗勢力を一掃する動乱期。
②明治11年~20年:内治整理・殖産興業による政府の発展期。
③明治21年~30年:後継者による政府の安定期。
自身の仕事は②発展期までとする抱負を示した大久保は、午前8時ごろに明治天皇に謁見するため、2頭立ての馬車で皇居へ出発。
この時、大久保に同行していたのは馬車を走らせる御者と従者の2人だけだった。
午前8時30分頃、紀尾井町清水谷付近に差し掛かった時に大久保の馬車は暗殺を企む6名に取り囲まれた。
馬の足を斬られ走行不可能とされた御者は暗殺犯に立ち向かうがあえなく刺殺され、従者は助けを求めるため逃亡。
馬車の中で書類に目を通していた大久保は護身のための武装をしていなかった。
そして大久保は暗殺犯に「無礼者」と一喝するも、為す術もなく馬から引きずり降ろされ斬殺された。享年49。
西南戦争で旧友・西郷隆盛の敵となった大久保であったが、生前の西郷からの手紙を入れた袋を持ち歩き、事件時にも2通を懐に入れていたという。
大久保は16ヵ所の傷を負い、そのうち8ヵ所は頭部に集中、介錯として首に突き立てた刀は地面まで達するほど深い恨みを買っていた。
また、大久保は鹿児島士族からも嫌われていたため、事件時に泣き叫んで逃げ回ったという噂が立ち、地元では多くの者が信じていった。
大久保暗殺の実行犯
大久保暗殺の実行犯は石川県士族・島田一郎、長連豪、杉本乙菊、脇田巧一、杉村文一と島根県士族・浅井寿篤の6名。
中心人物の島田一郎は第一次長州征伐、戊辰戦争にも参加した元加賀藩士で、明治維新後は軍人として採用されていた。
しかし、征韓論を支持していた島田は、明治六年の政変で西郷隆盛が下野して以降、政府に反抗的な意思を示すようになっていた。
島田一郎
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また、島田と意気投合していた長蓮豪は、西郷が創設した私学校にも留学していた人物でもあった。
明治10年(1877)西南戦争が起こると、島田と長は挙兵を企んだが政府軍優勢の報に計画を中止し、方針を政府高官の暗殺に切り替えていた。
唯一の島根県人であった浅井寿篤は、西南戦争時は警視隊に属して政府軍として従軍していたが、戦後に禁令を犯して免職となり暗殺計画を知ってメンバーに加わった人物だった。
この島田らの暗殺計画は、大警視・川路利良の耳にも入っていたが、川路は「石川県人に何ができるか」と全く相手にしていなかった。
川路利良
事件後
事件後、島田一郎らは刀を捨て、大久保と政府高官(木戸孝允、岩倉具視、大隈重信、伊藤博文、黒田清隆、川路利良)の罪を挙げた斬奸状を持って自首した。
斬奸状の内容
国会も憲法も開設せず、民権を抑圧している。
法令の改変が激しく、官僚の登用にはコネが多く使われている。
不要な事業により、国費を浪費している。
国を思う志士を遠ざけ、内乱を引き起こした。
外国との条約改正を進めていない。
事件後、警察は斬奸状を各新聞社に投稿した者に限らず、事件を聞いて手紙を国許に送っただけの石川県人など30名を逮捕。
政府は臨時裁判所を開設して7月27日に暗殺犯6名を斬罪に処した。
また、この事件をきっかけに政府高官の移動には、数人の護衛が付くようになった。
島田らが用意した斬奸状には大久保が公金で私腹を肥やしたと書かれていたが、実際の大久保は金銭に対して極めて潔白で、公共事業には私財を投げ打つなどしていたため8,000円もの借金が残った。
このため、政府は生前の大久保が鹿児島県庁に寄付した学校費8,000円を回収し、募金も集めて遺族は養われた。
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