大河ドラマ西郷どん(せごどん)48話?
最終回その後①
【糸・菊次郎・寅太郎・菊草など】
大河ドラマ西郷どん(せごどん)は第47話で最終回を迎え、主人公・西郷隆盛はこの世を去ってしまいますが、こののち残された西郷家はどうなってしまうのか。
そんな疑問を解決するため、今回は「最終回その後」として糸、菊次郎、寅太郎、菊草などの西郷家の人物について簡単にまとめてみました。
その他の人物のその後については下記からよろしくお願いします!
西郷糸のその後
質素倹約、長生きした糸
明治10年(1877)西南戦争の最中、政府軍は鹿児島に火をつけたため西郷家は焼失し、糸たちは西別府村に隠れていました。
糸は夫に新しい着物と帯を届けさせるなどしていましたが、隆盛は城山で自刃し、翌日に糸にもその報が伝えられました。
この時、糸は34歳(大河ドラマではもう少し年長の設定)。
戦後、西郷隆盛は新政府に背いた反逆者として扱われ、糸たち西郷一家は鹿児島に戻ってひっそりと暮らします。
明治11年(1878)、西郷従道の妻・清の父で大久保利通と近しかった得能良介は香典として西郷家に700円(現在の約1千万円にあたる)を送りますが、糸は受け取りを拒否し、熊吉に東京まで返しに行かせました。
熊吉:「もらっとけばいいのに~」
明治12年(1879)、西郷家の建築資金援助の申し出を糸が断ったため、従道は西南戦争で戦死した小兵衛の子の名義で屋敷を再建させました。
その後、菊次郎が外務省に入省し、寅太郎のドイツ留学もあって西郷隆盛赦免の機運が徐々に高まり、大日本国憲法が発布された明治22年(1889)2月11日、ついに隆盛の罪は許されました。
明治29年(1896)、糸は寅太郎の結婚式のために上京し、そのまま寅太郎邸に身を寄せて上野公園の西郷隆盛像の除幕式にも出席。
大正8年(1919)に寅太郎が死去すると、糸は寅太郎の子供たちと共に午次郎の家に移り、大正11年(1922)、79歳で死去しました。
糸は質素な暮らしを続け、「食事に何を差し上げましょうか」と聞かれた際には「芋粥でよか」と答えて、毎日「幸せ」と言いながら食べていたといいます。
晩年の西郷糸
西郷菊次郎のその後
実母を思いやった優しい菊次郎
西郷菊次郎は西南戦争時に右足を負傷し、西郷家の下男・永田熊吉に背負われて政府軍の西郷従道のもとへ投降していました。
戦後、西郷一家はひっそりと暮らしますが、菊次郎は明治13年(1890)に菊草の結婚を期に奄美大島へ渡り、一人になっていた実母・愛加那と暮らしました。
しかし4年後、菊次郎は外務省への入省が決まり、母を残して奄美大島を離れ、東京のアメリカ公使館などで勤務します。
その後、再びアメリカ留学を果たした菊次郎は、日清戦争後に日本が支配した台湾で重職を歴任。
ちなみに菊次郎は台湾に赴任する際、母を訪ねて奄美大島に立ち寄っています。
帰国後、京都市長となった菊次郎は発電、上下水道整備、市電設置の京都三大事業を推進し、明治44年(1921)に退職。
その後、鹿児島に帰郷して昭和3年に心臓麻痺で死去しました。享年67。
西郷寅太郎のその後
父に負けない人格者だった寅太郎
寅太郎が父をなくしたのは11歳の時で、その後の西郷家は鹿児島で密かに暮らしていました。
しかし、明治17年(1884)に勝海舟らの働き掛けがあって、18歳になっていた寅太郎は明治天皇からドイツ留学を命じられます。
寅太郎のドイツ生活は13年に及び、その間にプロイセン陸軍少尉にまでなりました。
帰国後、寅太郎は日本でも陸軍少尉に任じられ、明治35年(1902)に父・隆盛の維新の功によって侯爵を授かって貴族院議員に就任。
寅太郎は東京俘虜収容所長、習志野俘虜収容所長も務め、捕虜たちを人道的に扱っていきました。
大正7年(1918)、スペイン風邪(インフルエンザ)が流行すると、寅太郎も感染。
大正8年(1919)1月1日、医師が止めるのも聞かず、寅太郎は年頭の挨拶としてドイツ兵捕虜を励そうと収容所へ向かい、肺炎を発症して死去してしまいました。享年53。
西郷菊草のその後
夫のDVに苦しんだ菊草
西郷菊草は西南戦争が始まる1年前の明治9年(1876)、14歳で従兄弟の大山誠之助と婚約していました。
しかし、 翌年に西南戦争が起こったために結婚式は延期となり、菊草は避難生活を余儀なくされました。
明治13年(1890)、西南戦争で西郷軍として戦っていた婚約者・大山誠之助が釈放されると二人は晴れて結婚式を挙げます。
結婚生活では4人の子を授かりましたが、夫は借金とDVを繰り替えすクズ男へ変貌し、菊草は長い間苦しみました。
明治40年(1907)、菊草はやっと夫と別居することができ、京都市長となった兄・菊次郎のもとへ身を寄せます。
そして、京都で心安らぐ生活を送った菊草は、2年後に47歳で死去しました。
西郷午次郎のその後
実業家になった午次郎
西南戦争で戦死した西郷隆盛は新政府に背いた反逆者として扱われていたため、西郷一族は鹿児島でひそかに暮らしていました。
しかし、父の維新の功績が認められると、明治35年(1902)には寅太郎が侯爵を授かって貴族院議員に就任します。
午次郎は兄とは違って政治の道には進まず、日本郵船に勤務して実業家として成功を収めます。
大正8年(1919)寅太郎の死去に伴い、午次郎は母の糸や寅太郎の子供たちを引き取りました。
その後、叔父・西郷従道の土地も譲り受け、退職すると悠々自適の生活を送って昭和10年(1935)に65歳で死去しました。
西郷酉三のその後
早世した酉三
西郷酉三は父・隆盛が戦死したとき、わずか4歳でした。
酉三のその後の人生はよく分かっておらず、明治36年(1903)に結核で死去したことだけ分かっています。享年30。
熊吉
従道に仕えた熊吉
熊吉は西南戦争に従軍した西郷菊次郎が右足に重傷を負うと、菊次郎を背負って政府軍にいる西郷従道のもとへ投降しました。
このとき従道は甥の投降を喜び、命を救ってくれた熊吉に礼を言ったといいます。
西郷隆盛が自刃したあとも、熊吉はひっそりと暮らす西郷家に仕えていましたが、明治19年(1886)になると従道に呼ばれて上京します。
以後、熊吉は従道に仕えて目黒の西郷邸に住み、明治33年(1900)に死去しました。
市来琴のその後
その他の西郷家
管理人さん❗️❗️❗️❗️12月16日の西郷どんの最終回を見ていたらおフランス国歌ラ・マルセイエーズで歌っていたわよ♥️武器⚔️を取れ市民たちって凄くない⁉️本当か知らないけどテレビ️❇️をていたら今の日本人は、気概のある人がいないって言っていたわよ♥️Casablancaって言う映画の中でもラ・マルセイエーズが出てくるけど、素晴らしいの一声よ⁉️
恭子さんコメントありがとうございます。新八の歌にはそんな意味があったんですね!全然気にしてませんでした!
歌の意味を聞いて見直してみるとまた違う思いで最終回を堪能できました。ありがとうございます!