大河ドラマ西郷どん(せごどん)48話?
最終回その後②
【従道・愛加那・久光など】
大河ドラマ西郷どん(せごどん)は第47話で最終回を迎え、主人公・西郷隆盛はこの世を去ってしまいますが、こののちこれまで登場してきた人物たちはどのような人生を送ったのか。
そんな疑問を解決するため、今回は「最終回その後」として西郷従道、海江田武次、島津久光、愛加那などのドラマで印象深かった人物のその後について簡単にまとめてみました。
その他の人物のその後については下記からよろしくお願いします!
西郷どん48話?【その後】
西郷従道のその後
「小西郷」と呼ばれた従道
兄・隆盛が西南戦争を起こした時、政府内にいた西郷従道は陸軍卿・山縣有朋が軍を率いて九州へ向かったため、陸軍卿代理に就任して政府の留守を守っていました。
戦後に近衛都督となった従道は、紀尾井坂の変で大久保利通が暗殺されたのち参議となり、薩摩閥の重鎮として君臨していきます。
また、明治十四年の政変において大隈重信に辞表提出を促すなど、伊藤博文にも協力していきました。
明治17年(1884)の華族令制定に伴い、伯爵を授けられた従道は初代海軍大臣に任命され、山本権兵衛を抜擢して日本海軍を日清・日露の勝利に貢献。
従道は事務は部下に任せ、失敗の責任は自分が取るという考えを持っていて、山本権兵衛が活躍できたのも従道の度量の大きさのお陰だとも言われています。
明治25年(1892)には元老として枢密顧問官に任じられ、品川弥二郎とともに国民協会を設立。
その後、従道は海軍軍人として初めて元帥の称号を受けるなど評価され、内閣総理大臣候補にも名を挙げられましたが、従道は兄が逆賊の汚名を受けたことを理由に断り続け、明治35年(1902)に胃癌で死去しました。
海江田武次(有村俊斎)のその後
実は大久保に評価されていた俊斎
西南戦争~紀尾井坂の変の間、島津久光のもとにいた海江田武次は病気療養中でした。
大河ドラマでは少しバカっぽい役柄の海江田武次でしたが、実際は大久保利通が海江田武次の才能を高く評価していました。
再三、海江田武次は政府の中でも問題を起こしていましたが、大久保は見捨てることはなく、海江田武次も大久保暗殺の報を聞いて嘆いたといいます。
明治14年(1881)、海江田武次は元老院議官となり、明治20年(1887)には伊藤博文の勧めで欧米視察を行います。
海江田武次はフランスの国会を見学した際、先進国の議会のマナーの悪さに驚き、オーストリアでは伊藤に憲法を講義したシュタインに師事して「欧米の真似事ばかりせず、日本人として祖国の本質を知りなさい」と言われました。
シュタインの言葉に深い感銘を受けた海江田武次でしたが、帰国後たいした活躍を見せることなく明治39年(1906)に75歳で死去しました。
島津久光のその後
最後まで政府に従わない久光
明治10年(1877)、西南戦争が始まると政府は島津久光の動向を心配していました。
このため、政府は勅使・柳原前光を鹿児島に派遣して上京を促しますが、久光は中立の立場にあることを表明して戦争には一切関わらず、戦火を避けるために桜島に一時避難しました。
西南戦争後も政府は久光の扱いには頭を悩ませ、最高級の叙位・叙勲などでもてなします。
当の久光は隠居生活の中で島津家に伝わる史料、史書の編纂に専念していました。
明治20年(1887)に久光は71歳で死去しますが、政府への反抗心から生涯髷を切らず、帯刀・和装をやめなかったといいます。
愛加那のその後
菊次郎との再会と孤独な死
西郷隆盛が西南戦争で亡くなる前、菊次郎、菊草と二人の子を鹿児島に行かせた愛加那は、変わらず奄美大島で暮らしていました。
戦後、3年が経って菊草が大山誠之助と結婚すると、愛加那のもとに菊次郎が帰ってきました。
そのまま、愛加那と菊次郎は一緒に暮らしていましたが、明治17年(1884)に菊次郎の外務省入省が決まると、愛加那は菊次郎を送り出し、また一人暮らしが始まります。
しかし、日清戦争後に台湾に赴任することになった菊次郎は、奄美大島に立ち寄って愛加那を訪ねるなどいつも気にかけていました。
西郷隆盛の名誉が回復した明治31年(1898)、屋敷の庭には西郷隆盛の記念碑が建てられ、愛加那も記念式典に参列。
その後も愛加那は奄美大島を出ることなく西郷隆盛にもらった家で暮らします。
そして明治35年(1902年)、愛加那は雨の降る中、農作業の途中で倒れ、65歳で亡くなりました。
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西郷どん(せごどん)あらすじ
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