大河ドラマ西郷どん(せごどん)
有村俊斎(海江田信義)
大河ドラマ西郷どん(せごどん)で、西郷小吉(隆盛)たちの下加治屋町郷中と競い合う高麗町郷中に所属している有村俊斎(のちの海江田信義)。
小さい頃は茶坊主姿ですが、のちに維新志士して西郷隆盛たちと共に活躍していきます。
しかし、この有村俊斎はどうも軽率な行動が多く、時には西郷に災難をもたらすことも。
今回は幕末から明治にかけ、地味に活躍した有村俊斎について簡単に紹介します。
有村俊斎(海江田信義)
天保3年(1832年)、有村仁左衛門兼善の次男として生まれた(幼名は太郎熊)。
西郷隆盛より4歳年下。
11歳の時、島津斉興の茶頭に出仕して茶坊主となり、俊斎と称した。
嘉永2年(1849年)、お由羅騒動に巻き込まれ、有村家は薩摩藩を追われて貧乏生活。
嘉永4年(1851年)に新藩主・島津斉彬によって藩に復帰し、西郷吉之介(隆盛)、大久保正助(利通)らと「精忠組」を結成した。
嘉永5年(1852年)、俊斎は西郷らに先がけてに江戸藩邸に勤め、水戸藩邸に出入りして尊王論を学んだ。
安政の大獄が始まると、俊斎も追われて安政5年(1858年)に西郷と共に帰国。
薩摩に戻った俊斎は、脱藩を計画して過激な行動をとろうとするが、藩主・島津茂久から軽率な行動を諫められ、その後は気持ちを入れ替えて藩政に従った。
しかし、弟の有村次左衛門は過激な思想を捨て去ることができず、万延元年(1860年)に桜田門外にて水戸浪士と共に井伊直弼を襲撃して自刃。
もう一人の弟の雄助も、水戸藩士を行動していたため精忠組が立ち会いのもと自害した。
文久元年(1861年)、日下部伊三治(旧姓:海江田)の婿養子となって海江田信義と改名したが、以後も有村俊斎の名を併用。
文久2年(1862年)に島津久光に従って上洛する際、西郷の命令違反を久光に伝えて西郷を失脚させてしまう。
そのあと、久光の帰路に同行した俊斎は、行列を遮ったイギリス人を殺害した。(生麦事件)
戊辰戦争では、江戸城明け渡しの際に新政府軍代表として西郷を補佐するなど活躍。
俊斎は、戊辰戦争で活躍した長州藩の大村益次郎と仲が悪く、度あるごとに対立しており、大村が殺害された時には黒幕として噂され謹慎処分となる。
明治3年(1870年)、大久保の尽力により官職に復帰して奈良県知事に任命されるが、明治4年(1871年)に解任。
薩摩に帰るところ、新政府に不満を持つ島津久光に拾われて、新政府との調停役となる。
これによって俊斎は再度官職に復帰し、明治6年(1873年)に久光を説得して上京させた。
その後、鹿児島に帰った俊斎は、病気療養中に気心しれた西郷や大久保を西南戦争、紀尾井坂の変で失う。
明治14年(1881年)に元老院議官として再々復帰し、明治20年(1887年)には欧米視察を命ぜられて渡航した。
明治39年(1906年)、75歳で死去。