大河ドラマ西郷どん(せごどん)
宝島事件とトカラ列島
大河ドラマ西郷どん(せごどん)の第11話で、島津久光が西洋人の戦い方を知るために大久保正助に探させて読もうとしていたのが「宝島事件」の記録。
これまでお由羅の傍にいてマザコン、情けない印象が目立つ島津久光でしたが「宝島事件」を調べて少しでも多くの知識を吸収し、西洋列強との戦に備えようとする姿に、大久保正助は初めて久光に畏敬の念を抱きました。
今回は、この時に島津久光が調べていた「宝島事件」とその舞台となったトカラ列島について簡単に紹介します。
出典:https://xperience.link/
宝島事件
宝島事件とは、文政7年(1824年)8月、鹿児島と沖縄のあいだに浮かぶトカラ列島に属している宝島にイギリス船が来島し、薩摩藩の役人と争いになった事件。
19世紀初めごろから産業革命によって欧米の国々は日本近海で捕鯨を盛んに行っており、宝島にやってきたイギリス人は捕鯨船の乗組員が食料とするため島民に牛を渡すように要求しました。
しかし、これを薩摩藩の役人が拒否したために、20~30名のイギリス人が上陸して牛3頭を略奪します。
役人の吉村九助は応戦してイギリス人1名を射殺、さらにこの島に流されていた本田助之丞と田尻後藤兵衛という二人の武士もこの争いに参加したといいます。
この宝島事件から遡ること3か月前、水戸の大津浜でもイギリス船が上陸し事件になっていました。
これらの事件が要因となって、翌年の文政8年(1825年)に幕府はオランダ以外の西欧の国の船を発見と同時に攻撃すべきという異国船打払令が出されました。
トカラ列島の歴史
トカラ列島(吐噶喇列島)は、南西諸島のうち、鹿児島県側の薩南諸島に属する島嶼群。
古代では朝廷から南海に派遣される遣唐使などの海上目標や休憩地とされていました。
中世においても日宋貿易で同様に扱われ、各島には平家末裔を称する島司がいて島の実権と祭祀を掌握。
近世に入ると薩摩藩の直轄領となり島役と在番が置かれました。
宝島
トカラ列島の有人島では最南端にあり、鹿児島港から366km、奄美大島からは90kmに位置します。
周囲はサンゴ礁に囲まれ、島の北東部には地元住民が「サバク」と呼ぶ砂丘があります。
集落は島の北岸の平地にあり、人口 は100名超。
島の面積は、7.14平方キロメートルで、島を一周しても13.77kmしかありません。
空港がないため、鹿児島港よりフェリーで約13時間かかります。