大河ドラマ西郷どん(せごどん)
征韓論
大河ドラマ西郷どん(せごどん)の第42話、療養から復帰した西郷隆盛を待ち受けていたかのように朝鮮との国交問題が浮上します。
鎖国をしていた江戸時代にも、朝鮮とは例外として盛んに交易を行っていたものの、明治維新後の急激な日本の欧米化に朝鮮は国交断絶を宣言。
このため、留守政府は「征韓論」を主張して「西郷の朝鮮派遣」を決定しました。
この記事では大久保利通との対立を生みだし、西郷隆盛が政府を去る原因となった「征韓論」について簡単に紹介しています。
征韓論
江戸時代、鎖国下にあった日本は限られた相手として朝鮮との貿易を行っていた。
しかし、江戸時代後期になると国学者たちから朝鮮進出が唱えられ始め、次第に尊王攘夷運動にも取り入れられていった。
彼らは『古事記』・『日本書紀』に古代日本が朝鮮半島に支配権を持っていたことが記されていることを根拠にしていた。
また、慶応2年(1866)、清国の新聞に日本人の八戸順叔が「征韓論」の記事を寄稿し、その後の日清・日朝関係が悪化した事件があった。
この頃、朝鮮では国王の父・大院君が政治の実権を握り、鎖国攘夷の外交策をとって対外的に強気な姿勢を貫いていた。
明治維新後、日本は朝鮮に対して新政府発足の通告と国交を望む交渉を行うものの、西欧化を進める日本の姿に朝鮮は懸念を抱いて拒否する。
それでも新政府は明治3年(1870)に佐田白茅、森山茂などを派遣して国交正常化を目指した。
しかし、朝鮮は全くこれに応じることなく、逆に明治6年(1873)頃からは排日の機運が高まっていく。
さらに大院君は「朝鮮人でも日本人と交われば死刑」という布告を出し、佐田、森山らは帰国を余儀なくされた。
そして政府はこの朝鮮の態度を非礼ととり「征韓論」を議論するようになっていった。
当時、日本では岩倉遣欧使節団が派遣されており、政府首脳陣は西郷隆盛ら留守政府に政治を託していた。
明治6年(1873)、留守政府の閣議で対朝鮮外交問題が取り上げられ、参議・板垣退助は現地の日本人保護のために兵を送ることを主張。
これに西郷隆盛が反対し、自身が大使として赴くことを主張して後藤象二郎、江藤新平らの賛同を得た。
副島種臣は西郷ではなく自らが赴く事を主張したが、太政大臣・三条実美の説得もあって副島は折れ、出兵を主張していた板垣退助も西郷に理解を見せた。
その後、三条実美の承諾を得て西郷の朝鮮派遣は上奏され、政府は西郷隆盛を使節として派遣することを決定した。
しかし、岩倉具視・木戸孝允・大久保利通らが帰国すると、西郷の朝鮮派遣は猛反対される。
そして使節団グループと留守政府の激しい議論の中、板ばさみになった三条実美は倒れ、最後には太政大臣代理となった岩倉具視の意見が通って西郷派遣は中止となった。
これによって西郷や板垣らの征韓派は一斉に政府から去り、佐賀の乱、西南戦争などの不平士族の反乱や自由民権運動が起こることとなっていく。
一方、西郷たちを追い出した政府は明治7年(1874)に台湾出兵を行った。
これには木戸孝允が「征韓論を否定しておきながら、台湾への出兵を行うのは矛盾である」と反発して政府を去ることとなる。
また、朝鮮に対しては明治8年(1875)に軍艦を派遣し、武力衝突の末に日朝修好条規を締結することになった。
西郷どん(せごどん)あらすじ
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