大河ドラマ西郷どん(せごどん)
柴山愛次郎、田中謙助、道島五郎兵衛、橋口吉之丞
大河ドラマ西郷どん(せごどん)の第23話、京都で西郷吉之助の旧友・有馬新七ら薩摩藩士たちは過激な行動を計画し、島津久光によって粛清される事件『寺田屋騒動(寺田屋事件)』が起こります。
この記事は、柴山愛次郎、田中謙助、道島五郎兵衛、橋口吉之丞など、この『寺田屋騒動(寺田屋事件)』に関わったマイナー薩摩藩士を中心に紹介していきます。
柴山愛次郎(1836~1862)
柴山愛次郎は、薩摩藩士の藩医である柴山良庵の次男として生まれました。
兄に尊王攘夷派志士・柴山良助、弟にはのちの海軍大将・柴山矢八がいます。
若くして藩校・造士館の訓導(教諭)を務めた秀才で、藩政では記録書書記も務めていました。
やがて尊王攘夷を志して諸国を遊学し見聞を広めた愛次郎は、精忠組に参加して有馬新七の尊王挙兵論に同調。
文久2年(1862)に薩摩を離れて、有馬新七らと寺田屋で京都所司代・酒井忠義襲撃を計画していたとき、島津久光の派遣した鎮撫使の襲撃に遭い、山口金之進に斬殺されました。
寺田屋騒動の悲報を聞いた西郷隆盛は、愛次郎の死を悲しんだと言われています。
田中謙助(1828~1862)
田中謙助は、薩摩藩士の池田家に生まれ、田中家の養子に入りました。
若くして古示現流剣術や砲術を修めた謙助は、柴山愛次郎と同じく藩校・造士館の訓導(教諭)を務めて精忠組に参加。
江戸では堀次郎(伊地知貞馨)とともに水戸藩士らと交流を持ち、幕府の外交姿勢を批判していた謙助は、大老・井伊直弼の暗殺も計画していました。
文久2年(1862)、大坂にいた謙助は、有馬新七らと京都所司代・酒井忠義らの襲撃を謀って大坂を脱走し、京に上って寺田屋に入りました。
そこに島津久光の派遣した鎮撫使が踏み込み説得を試みますが、激論の末、謙助の「もう論ずることはない」という言葉に鎮撫使の道島五郎兵衛が「上意」と斬りかかり同志討ちが始まりました。
眉間を斬られて昏倒した謙助は、その後蘇生しましたが翌日に伏見の薩摩藩邸で自害を命じられました。
道島五郎兵衛(?~1862)
道島五郎兵衛は、幕末の薩摩藩士で精忠組に参加していました。
文久2年(1862)に有馬新七ら過激派の薩摩藩士が寺田屋に結集すると、薬丸自顕流の剣術の達人だった五郎兵衛は、島津久光の命で大山格之助・奈良原喜八郎らとともに鎮撫使に任命されました。
五郎兵衛は、有馬新七らへの説得が不可能と悟ると、「上意」と言って抜刀して田中謙助の眉間を斬りました。
これを期に、薩摩藩士の同士討ち(寺田屋騒動)が始まり、有馬新七ともみあいになった五郎兵衛は、壁に押さえつけられます。
そして、橋口吉之丞に有馬新七もろとも刺し殺され、五郎兵衛は鎮撫使側の唯一の死者となりました。
橋口吉之丞(1843~1868)
橋口吉之丞は、薩摩藩士・橋口彦次の次男として生まれました。
兄は尊王攘夷志士の橋口壮介がいます。
文久2年(1862)に兄や有馬新七らとともに大坂で京都所司代・酒井忠義の襲撃を計画。
京に上がって伏見の寺田屋にいるところを、島津久光が派遣した鎮撫使に襲撃されます。
鎮撫使・道島五郎兵衛が真っ先に抜刀して田中謙助を斬り倒したため、有馬新七は激昂して道島五郎兵衛に斬りかかりました。
激しい戦闘の中、有馬新七は道島五郎兵衛を押さえつけ、「おいごと刺せ」と叫んだため、吉之丞は有馬新七ごと道島五郎兵衛を貫いたといいます。
この寺田屋騒動では兄・壮介も斬り殺されましたが、吉之丞は他の志士たちと鎮撫使に投降し、その後鹿児島に送られて謹慎処分となりました。
明治元年(1868)に別件で切腹させられたといいます。
その他
上に紹介したのはマイナーな薩摩藩士たちですが、以下は大河ドラマ西郷どん(せごどん)でも序盤から活躍し寺田屋騒動に関わったひと人物の紹介記事です。