大河ドラマ西郷どん(せごどん)
近衛忠房(このえただふさ)
大河ドラマ西郷どん(せごどん)で薩摩藩に協力している京都の公家・近衛家。本編では西郷吉之助に月照を引き合わせた近衛忠煕が登場しています。
安政の大獄によって政治生命を奪われた近衛忠煕に代わって、その後活躍したのが子の近衛忠房なのですが、この人は最終的に薩摩藩の心変わりによって少々気の毒な目に遭っています。
今回は、深い関係にありながら薩摩藩に捨てられてしまった近衛忠房について簡単に紹介します。
近衛忠房(1838~1873)
近衛忠房は、公家・近衛忠煕の子として生まれました。
父の近衛忠煕は、公武合体派として活動した人物で、薩摩藩主・島津斉興の養女・興子を妻としていました。
興子は島津斉興の実の妹で、のちに養女となって近衛忠煕に嫁ぎ、近衛忠房を産んだといいます。(庶子との説もある)
つまり、近衛忠房は島津斉彬、久光にとっては血縁上は従兄弟であり、戸籍上は甥っ子にあたることになります。
父・近衛忠煕
このように公家の近衛家と薩摩の島津家はズブズブの関係で、近衛家は養女・篤姫の将軍家への輿入れや、将軍継嗣問題で島津斉彬に協力していました。
しかし、大老に就任した井伊直弼によって島津斉彬らの「一橋派」が敗北すると、安政の大獄で弾圧され、父・忠煕は失脚して謹慎することとなります。
桜田門外の変で井伊直弼が死んだのち、文久2年(1862年)に父・忠煕は復帰して関白を務めますが、翌年には長州藩を中心とする尊王攘夷派の台頭によって辞官に追い込まれました。
そんな中、孝明天皇は過激な尊王攘夷運動には嫌悪感を抱いていました。
国事御用掛となっていた近衛忠煕は天皇の意を組み取り、文久3年(1863)の八月十八日の政変において父と共に関係の深かった薩摩藩に協力し、長州藩の勢力を京都から追放します。
近衛忠房自身は、決して長州藩を嫌っていたわけではなく、あくまで薩摩藩のために動いていました。
このため、慶応2年(1866)に第二次長州征伐が起こったときには、征討を強行しようとする幕府と、長州藩を擁護する薩摩藩の仲介を務めています。
近衛忠房は内大臣を経て、左大臣となり「公武合体」を推進していきますが、次第に薩摩藩は「倒幕」を目指して岩倉具視ら倒幕派公家に接近し、近衛忠房の出番はなくなっていきます。
そして、慶応3年(1868)の王政復古の大号令の直前に近衛忠房は辞官。
明治維新後は、世襲制度が廃止された伊勢神宮の祭主となりましたが、明治6年(1873)に父に先立って36歳で死去しました。