大河ドラマ西郷どん(せごどん)
朝彦親王(青蓮院宮・中川宮)
大河ドラマ西郷どん(せごどん)で登場する数少ない皇族・朝彦親王。※朝彦親王は、青蓮院宮、粟田宮、中川宮、賀陽宮、久邇宮など数多くの名称で呼ばれることがありますが、ここでは「朝彦親王」で統一。
大河ドラマ本編では、薩長同盟・倒幕を目指し西郷吉之助らが奔走する中で、この朝彦親王は岩倉具視(笑福亭鶴瓶)からは「曲者(クセモノ)」呼ばわりされて警戒されています。
実際、岩倉具視の懸念どおり朝彦親王は一橋慶喜(松田翔太)と裏で繋がっていて、一時的に吉之助を追い詰めることになるのですが、これはどうも史実ではないようでNHKさんも、なかなか思い切ったことをしています。
この記事では、史実に残る朝彦親王の生涯について簡単に紹介したと思います。
朝彦親王(青蓮院宮・中川宮・久邇宮)
朝彦親王は伏見宮邦家親王の第4王子で、仁孝天皇の猶子となった幕末の皇族。
朝彦親王は日米修好通商条約の勅許に反対し、13代将軍・徳川家定の将軍継嗣問題では「一橋派」を支持したことなどから、幕府大老・井伊直弼に目を付けられて安政の大獄で「隠居永蟄居」を命じられました。
その後、井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されると、朝彦親王は赦免されて国事御用掛として朝政に復帰します。
この頃、朝廷では長州藩を中心とした尊王攘夷派の公家が力を持っており、朝廷主導でに幕府を制御することを目標としていました。
そして彼らは朝廷に権力を取り戻すため、天皇が「攘夷」のための軍議を開き、勅許も得ずに条約に調印した幕府に責任を取らせて追い詰めようとしていました。
このため公武合体派であった朝彦親王は、長州藩に協力する尊王攘夷派の公家や志士たちから嫌われ、一時は都から遠ざけられそうになります。
しかし朝彦親王はこれに抵抗し、京都守護職を務めていた会津藩主・松平容保や薩摩藩と手を結び、「倒幕」と「攘夷」を唱える長州派勢力を朝廷から排除を計画。
幕府を信頼していた孝明天皇の意を利用して八月十八日の政変を成功させ、長州派の公家と長州藩勢力を京から追い出しました。
八月十八日の政変により朝彦親王は孝明天皇の信任を受けますが、長州藩士や尊王攘夷志士たちからは完全に恨みを買ってしまいました。
その後、長州藩は池田屋騒動や禁門の変、第1次長州征伐で力を失いますが、薩摩藩の指針が「倒幕」に切り替わって薩長同盟がなされると第2次長州征伐で幕府軍を圧倒。
さらに幕府が14代将軍・徳川家茂を病で失い、次いで孝明天皇が崩御して明治天皇が即位すると、朝廷は長州派の公家が復権して、朝彦親王は急速に力を失います。
そして慶応3年(1867)、王政復古の大号令によって長州藩や、かつての長州派(倒幕派・尊王攘夷派)の公家・三条実美、岩倉具視らが完全に力を取り戻すと、朝彦親王は広島藩に預けられ政治の表舞台から姿を消しました。
朝彦親王は明治維新後に謹慎を解かれて宮家の一員に復帰し、東京移住を命令されましたが京都で暮らすことを選び、政治生命を奪った薩長を中心とする新政府に加わろうとはしませんでした。
その後、朝彦親王は明治8年(1875)に新たに久邇宮家を創設し、伊勢神宮の祭主に就任。
神職を育成する数少ない大学、皇學館大学の創始するなど政治以外の部分で活躍し、明治24年(1891)に死去しました。