大河ドラマ西郷どん(せごどん)
近衛忠煕(このえただひろ)
大河ドラマ西郷どん(せごどん)で登場する近衛忠煕は、西郷隆盛、坂本龍馬ら幕末の英雄たちに比べ、とてもマイナーな人物。
しかし、公家で朝廷の中で活躍した近衛忠煕は、そんな下級武士たちからしてみれば雲の上の存在で、当時の日本で大きな影響力を持っていた一人です。
今回は、薩摩藩と縁が深かった公家・近衛忠煕(このえただひろ)について簡単に紹介します。
近衛忠煕役 国広富之
近衛家とは?
近衛家は、平安時代末期の関白・藤原忠通の子である藤原基実を始祖とする藤原北家の嫡流の公家。
九条家、二条家、一条家、鷹司家と並んで五摂家の一つである。
五摂家の筆頭として、代々摂政や関白に任じられた。
近衛忠煕(このえただひろ)
近衛忠煕は、幕末に公武合体派として活動した公卿。
文化5年(1808年)に 近衛基前の子として生まれた。
薩摩藩主・島津斉興の養女・興子を妻としたことから、薩摩藩とは政治的に親密な関係になる。
その後、斉興の子・島津斉彬は、養女の篤姫(天璋院)を第13代将軍・徳川家定に嫁がせて、次期将軍に一橋慶喜を推そうと画策した。
この計画に近衛忠煕は協力し、篤姫を自分の養女として「藤原敬子(すみこ)」と名乗らせ、家定の継室にすることに成功した。
安政4年(1857年)、近衛忠煕は左大臣となるが、幕府では大老に就任した井伊直弼によって将軍後継者が紀州藩主・徳川慶福(家茂)になることが決定し、近衛忠煕ら一橋派は敗北。
さらに、朝廷の勅許なしに日米修好通商条約を結んだ幕府に憤慨した水戸藩などが、近衛忠煕を通じて幕府への挙兵を促す勅諚(戊午の密勅)を朝廷から得たため、井伊直弼は激怒して大弾圧を決行した。
安政の大獄と呼ばれたこの弾圧によって、近衛忠煕は失脚して謹慎することとなった。
桜田門外の変で井伊直弼が死んだのち、文久2年(1862年)に近衛忠煕は復帰、幕府寄りだった関白・九条尚忠に代わって関白を務めたが、翌年に尊王攘夷派の台頭によって辞官に追い込まれる。
明治維新後、ほとんどの公家が東京に移住する中、近衛忠煕は京都に居住して孫の篤麿の養育に専念。
明治11年(1878年)に近衛忠煕は明治天皇の度重なる要請に折れ、東京に移って天皇に助言などを行い、明治31年(1898年)に死去した。享年91歳