大河ドラマ「西郷どん(せごどん)」
その後の愛加那・菊次郎・菊草はどうなった?
大河ドラマ西郷どん(せごどん)の第21話「別れの唄」で、幸せだった西郷吉之助、愛加那夫妻とその子・菊次郎もついに離れ離れになります。
切ない別れののちに吉之助は薩摩に戻って、民のため、日本のために邁進し、明治維新を成し遂げていくことになりますが、奄美大島に残された家族はその後どうなったのでしょうか?
この記事では、奄美大島に残された妻・愛加那、長男・菊次郎のその後の人生と、吉之助が島を離れてから生まれた長女・菊草のその後の人生について簡単に紹介していきます。
愛加那のその後
大河ドラマ西郷どん(せごどん)の21話では、大久保一蔵(利通)が奄美大島にやってきて、吉之助に薩摩に戻るように要請しています。
吉之助は一度は島に残ることを選びましたが、一蔵が残した「斉彬の形見」を見た瞬間から薩摩への思いが溢れます。
それを感じ取った愛加那に後押しされる形で二人は離れ離れになることになり、最後に愛加那と吉之助は「お互い生きていれば必ず会えるはず」と再会を誓い合いました。
切ない別れを経験することになった愛加那。
この愛加那がその後どうなったのかというと、驚いたことにすぐに再会の日はやってきます。
二人の再会の場所は、奄美大島のすぐ南に浮かぶ徳之島。
大河ドラマ西郷どん(せごどん)での再会の回は第24話になります。
出典:http://www.amami-tokunoshima.net/
薩摩に戻った吉之助は、国父・島津久光の命令違反を犯し、わずか2カ月後に徳之島への罪人として流されていました。
吉之助が薩摩に戻ったあと、娘・菊草を生んでいた愛加那は、吉之助が徳之島にいることを知って居ても立ってもおられず、兄・富堅の協力を得て菊次郎と菊草を連れて徳之島に渡ることになります。
突然の愛加那たちの来訪に驚く吉之助でしたが、はじめて抱く愛娘にすぐに顔をほころばせ、家族水入らずの時を過ごします。
愛加那はもう一度吉之助が薩摩に戻るまでの間、一緒に居ることにしましたが、幸せな日々は一瞬で終わりを告げました。
藩命によって吉之助はさらに南の沖永良部島に遠島処分にされてしまったからです。
この沖永良部島では、吉之助は牢に入ることになってしまったために、今度ばかりは愛加那もついていくことが出来ず、二人はここで徳之島で2回目の別れを経験しました。
その後、吉之助はが囚人として沖永良部島にいたのは1年半滞在。
史実での吉之助が書いた手紙では、もし罪が赦されたら隠居して奄美大島の龍郷で愛加那たちと暮らすつもりだと書いていました。
元治元年(1864)、大河ドラマ西郷どん(せごどん)では第25話で、吉之助は再び藩命によって薩摩に戻されることになり、弟の西郷信吾が迎えにきて沖永良部島を出ます。
この時、西郷信吾はサプライズで薩摩に戻る途中、奄美大島の龍郷に寄って吉之助と愛加那をまたまた再会させます。
史実においては、吉之助家族は3泊4日を過ごしたといいます。
しかし、これが愛加那と吉之助の今生の別れとなりました。
元治2年(1865)、大河ドラマ西郷どん(せごどん)では第29話で、吉之助は岩山糸と結婚。
史実での吉之助は、結婚直後に奄美大島の島役人に手紙で愛加那たちが世話になっている礼を述べ、反物2反を送るので子に渡して欲しいと頼んでいます。
しかし、この時には菊次郎、菊草が引き渡されることはありませんでした。
愛加那が菊次郎を引き渡したのは、明治新政府が樹立した後、菊次郎が8歳の時でした。
このとき、愛加那がどのような思いであったかはわかっていません。
史実では明治6年(1873)に西郷隆盛(吉之助)は愛加那に手紙を送っています。
この時の手紙では、菊次郎がアメリカに留学していることを愛加那に伝え、菊草と共に本土にくるように頼んでいます。
しかし、愛加那は奄美大島を離れることなく、菊草(12歳)だけが鹿児島の西郷家に引き取られました。
大河ドラマ西郷どん(せごどん)での愛加那は、最初の別れの中で「自分が吉之助のもとに行くことは、吉之助を苦しめることになる」と思っていますし、最後に会った時には「二度と会えなくても自分の体の中は吉之助でいっぱい」とも言っています。
切ない話ですが愛加那にとっては、奄美大島での吉之助との日々だけで十分幸せだったのかもしれません。
その後、西南戦争が起こり、西郷隆盛は戦死してしまいました。
愛加那はどのような気持ちで西郷隆盛の死の報を聞いたのでしょうか。
このあと、愛加那は二度と子供たちと会えなかったわけではなく、菊次郎とは約4年間ぐらい奄美大島で暮らしています。
菊次郎は父のもと西南戦争に参加していて、戦後は新政府に逆らった西郷隆盛の子として扱われ、居場所がなかったからです。
やがて菊次郎は許されて、明治政府に請われて奄美大島から東京へ移りましたが、明治28年(1895)の日清戦争後、台湾に赴任する際に奄美大島に立ち寄り、愛加那を訪ねています。
最愛の人との子・菊次郎がずっと母のことを想ってくれていたことに、悲しい運命ばかりを背負ってしまった愛加那が少しだけ救われる気がしてホッとします。
明治31年(1898)、反逆者の罪を許された西郷隆盛は奄美大島の屋敷の庭にも記念碑が建立されて、式典には愛加那も参列しました。
そして明治35年(1902)、愛加那は雨の降るなかで一人で畑に行き、農作業の途中で倒れてそのまま息を引き取りました。享年65歳。
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西郷菊次郎のその後
奄美大島を離れた吉之助は、菊次郎を置いていきましたが前述のとおり、大河ドラマ西郷どん(せごどん)の中では徳之島と、奄美大島で再会しています。
とはいっても、菊次郎が1歳~4歳ぐらいまでの間のことなので、本人にとっては父の記憶はほとんどなかったでしょう。
しかし、菊次郎は8歳になったときに鹿児島の西郷本家に引き取られ、その後父に連れられて東京で一緒に暮らしました。
菊次郎は12歳から2年半のアメリカへ留学を経験し、帰国後は父が起こした西南戦争に薩軍の一員として参戦します。
この戦いで菊次郎は、銃弾を受けて右足を切断。
西郷家の下男・永田熊吉に助けられて、叔父にあたる政府軍の西郷従道(信吾)のもとへ投降しました。
この菊次郎の投降に叔父は喜んだといいます。
反逆者の子に世間の目は厳しかったのか、その後、菊次郎は奄美大島で一人になっていた母・愛加那と暮らしました。
4年後、菊次郎は外務省に入省が決まって母を残して奄美大島を離れ、東京のアメリカ公使館などで勤務すると明治20年には再びアメリカへの留学。
日清戦争で日本が台湾を得ると、菊次郎は台湾に赴いて4年半もの間、重職を歴任します。
菊次郎は台湾に赴任する際は、母のいる奄美大島に立ち寄るなど父以上に家族思いの人物でした。
日本に帰国後、菊次郎は京都市長となり活躍し、辞職後は鹿児島県に帰郷して昭和3年に死去しました。享年67歳。
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西郷菊草のその後
菊草は父・吉之助が奄美大島を去った後に生まれました。
このとき吉之助は徳之島にいたため、奄美大島の木場伝内からの手紙で菊草の誕生を知りました。
前述のとおり、母・愛加那は菊次郎と菊草を連れて徳之島へと渡り、菊草ははじめては父と対面。
つかの間の家族団らんの時を過ごして別れ、1年半後に薩摩に戻ることになった父と菊草はもう一度対面しました。
しかし、まだ生まれたばかりの菊草には父との思い出は全くなかったことでしょう。
明治2年(1869)になって兄・菊次郎が父に引き取られましたが、菊草(7歳)は奄美大島に残り母と共に暮らしました。
父は菊草のことがかなり気になっていたようで、明治6年(1873)には愛加那に手紙を送って「菊草のことを思い出すので母娘で本土に来て欲しい」に頼んでいます。
その後、明治7年~8年頃になって菊草は西郷家に引き取られ、父から非常に可愛がられたといいます。
明治9年(1876)、14歳になった菊草は従兄弟の大山誠之助と婚約しましたが、 翌年に西南戦争が起こったために式は延期。
避難生活をしていた菊草は、この戦争で負傷して帰って来ていた兄・菊次郎とともに父の死を知りました。
戦後に、菊草は奄美大島の母に何回か手紙を書いていますが、二度と奄美大島に渡ることはありませんでした。
その後、婚約者の大山誠之助が釈放されると結婚し、菊草は4人の子を授かりました。
しかし、この夫は借金とDVを繰り返すロクでもない男だったようで、菊草は長らく苦しむことになります。
借金の整理のため、鹿児島の家を処分して東京にいた義兄・大山巌を頼り、夫妻は援助を受けて暮らしました。
明治40年(1907)になって菊草は夫とやっと別居することができ、京都市長となっていた兄・菊次郎のもとへ身を寄せて2年後に京都で死去しました。享年47歳。
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