大河ドラマ西郷どん(せごどん)
戊午の密勅(ぼごのみっちょく)
大河ドラマ西郷どん(せごどん)の第16話で、島津斉彬の死去後に西郷吉之助は悲しみを押し殺しながらも近藤忠煕を通じて、朝廷から水戸藩の徳川斉昭に挙兵を促す詔を出してもらうよう願い出ます。
この詔が、井伊直弼による尊王攘夷派の大弾圧(安政の大獄)に引き金になった「戊午の密勅」と呼ばれるものです。
今回は、この「戊午の密勅」と、この密勅による水戸藩の影響について簡単に紹介します。
出典:http://takatokihojo.hatenablog.com/
戊午の密勅
戊午の密勅は、安政5年(1858年)に孝明天皇が水戸藩に勅書を下賜した事件をいう。
安政5年の干支が「戊午」であったことに由来し、「密勅」は関白の裁可を得ないままの下賜であったことによる。
この戊午の密勅が下される背景にあったものは、大老・井伊直弼による日米修好通商条約への勅許なしでの調印で、水戸藩や西郷隆盛を中心として公家の近衛忠煕から孝明天皇に働きかけたからであった。
密勅は幕府寄りの関白・九条尚忠の目を避けて水戸藩にもたらされた。
密勅の内容は「勅許なく日米修好通商条約に調印したことへの責任追及」、「御三家および諸藩は幕府に協力して公武合体を進め、幕府は攘夷を実行せよとの命令」など。
水戸藩へ朝廷から直接勅書が渡されたことは、幕府政治を無視して威信を失墜させる意味を持っており、その後密勅の写しが諸藩に出回っていることに怒った井伊直弼によって安政の大獄を引き起こされた。
水戸藩は、尊皇攘夷派と幕府との関係を重視する保守派との対立が激しかったが、密勅を受け取ると尊王攘夷派の中でも、密勅に忠実に従おうとする過激派と、幕府に返納すべきとする穏健派に分裂。
幕府は水戸藩に返納を求めたが、過激派の藩士は勅書の返納を阻止するため抵抗したため、安政6年(1859年)に密勅は天皇の意思ではなく水戸藩の陰謀として幕府に決めつけられ、安政の大獄で徳川斉昭以下、多くの藩士たちが処分された。
その後、幕府は朝廷に働きかけて、水戸藩に対し勅書を幕府に返納する事を命じ、安政7年(1860年)に返納が正式決定。
しかし、水戸藩では過激派と穏健派が斬り合いとなる騒ぎが起こったり、返納反対を訴えて切腹する者まであって返納は延期となった。
この混乱の中で一部の過激派は脱藩して井伊直弼襲撃を計画、桜田門外の変を起こすことになる。