大河ドラマ西郷どん(せごどん)
海江田武次
大河ドラマ西郷どん(せごどん)の第21話「別れの唄」で、西郷吉之助と愛加那に子供(菊次郎)が生まれた頃、薩摩藩では大久保一蔵(利通)の粘り強い説得のかいあって、吉之助を呼び戻すことが決定されました。
これに喜んだのが大山格之助、村田新八と、今回紹介する海江田武次。
海江田武次はもとの名を有村俊斎といい、月照と吉之助の逃避行に同行していた人物です。
この記事では、倒幕に向けて吉之助たちが動き出す中で、軽率な行動を繰り返し、色々足を引っ張っていく大河ドラマ西郷どん(せごどん)の中の海江田武次について簡単に紹介します。
海江田武次(信義)
海江田武次は、旧名を有村俊斎といい、幼い頃に島津斉興の茶坊主と出仕していました。
大河ドラマでも、はじめに登場した時はツルピカハゲ丸くんでした。
子供たちの中でも、自分は殿の近くにいて「お菓子を食べた」とか色々自慢していました。
その後、成長したハゲ丸くんは西郷吉之助に先がけて江戸藩邸に勤め、吉之助が江戸に来た折には先輩風(実際は吉之助より4歳年下)を吹かせて品川宿の旅籠「磯田屋」に連れて行っています。
磯田屋では「ふき(およし)」のことを気に入っていたようなそぶりを見せていましたね。
その後、安政の大獄が始まると、俊斎は吉之助と月照の逃避行に同行。
この時も、冗談を言って月照に「まぎらわしい」とぼやかれていました。
そうなんです。この人、空気を読めない、時勢も読めない、かなりのお調子者なんです。
そんなお調子者の俊斎も、薩摩に戻ってからは有馬新七と脱藩を計画して過激な行動をとろうとしています。
というのも、江戸に残してきた弟の有村次左衛門が、桜田門外の変で井伊直弼を討ち取り、その後自害したから。
弟たちの死に、ついに自分も何かやらなきゃと目覚めたのか?
大久保に噛みつく有村俊斎
俊斎は、このころに「海江田武次信義」と名を変えました。
史実では日下部家を継ぐ予定だった弟の次左衛門が死んでしまったために、俊斎は日下部家の娘を妻にして婿養子に入り、日下部家の旧姓である「海江田」を名乗って、その義理を果たしたのだと言われています。
その後、海江田武次は島津久光の率兵上京計画に奮い立ち、さらに西郷吉之助の薩摩召還が決まって大喜びしました。
しかし、帰ってきた吉之助は久光の計画に真っ向から反対し、仲間の前で堂々と批判します。
すると、海江田武次は調子にのって、久光を「らっきょう」呼ばわりしてバカにします。
お前の考えはどっちなんだ?ホントに周りに流されやすい性格。
この後、なんだかんだ言いつつも海江田武次は島津久光に従って上京しますが、史実ではこの時に西郷吉之助のの命令違反を久光に伝えて失脚させるという裏切り行為を行っています。
大河ドラマの中では、久光が吉之助を嫌っていることを知らなかった海江田武次が、久光に対して吉之助の活躍ぶりを誇らしげに報告したために怒りを買ってしまったという設定なのですが。
海江田武次と名と変えても、軽率なお調子者気質は変わっていません。
しかも、このあと久光の帰路に同行していた海江田武次は、行列に割り込んできた英国人を斬り捨てるという大事件を起こします。
これが、のちに薩英戦争の発端となった生麦事件です。
実際に英国人に斬りかかったのは違う薩摩藩士で、海江田武次はとどめを刺しただけ。
でも、これまでの海江田武次の性格を見ていると、調子こいて仲間の行動に乗っかり「えい!」ってとどめを刺したような気がする。
おいがやりもした!
こののち、海江田武次は大河ドラマでチョロチョロでは出てきますが、大したことしていません。
反省してたのかな?いえいえ、そんなことはありません。
なんで分かるかって?だって海江田武次だもの。
次に海江田武次が起こした事件は、薩長同盟の邪魔をするというもの。
同盟の下準備をしていた西郷吉之助ですが、どうしても長州の桂小五郎のいる下関に行くことができなくなり、代わりに手紙を届ける人を探していました。
そこで立候補してきたのが海江田武次で、当然吉之助も信用して手紙を託します。
しかし、この海江田武次は長州と薩摩が組んだら、また藩が荒れてしまうという勝手な判断で、吉之助を裏切って下関には行きませんでした。
吉之助が来ると思っていた桂小五郎は大激怒、海江田武次のせいで吉之助は信用を失ってしまいました。
史実では吉之助が自分で判断して連絡しなかったようで、海江田武次がこれに関与していたことはないようです。
しかし、大河ドラマでは完全に軽率お調子者キャラが定着しているため、全ての責任を海江田武次になすりつけられました。
ちょっと気の毒な気もしますが、それでこそ海江田武次ですw。
反省してるのか?
史実の海江田武次は長州藩の大村益次郎と仲が悪く、度あるごとに対立して大村が殺害された時には黒幕として噂されて謹慎処分となります。
実際、海江田武次は殺害を否定していますが、事あるごとに「殺してやりたい」と言っていたため、疑われても仕方ありませんでした。
その後、大久保利通の尽力によって海江田武次は官職に復帰。奈良県知事に任命されましたが、たった1年で解任されます。
解任理由は、海江田武次が業務の多さを解消するために、手狭な県庁を民部省の承認を得ずに勝手に移転させたからと言われています。
相変わらずの軽率さ。ここまでくると、もはや尊敬に値します。
こうして居場所の無くなった海江田武次を次に拾ったのは、新政府に不満を持つ島津久光でした。
新政府と久光の調停役となって再度官職に復帰した海江田武次は、久光を説得して上京させるなど活躍。
もしかして双方に調子のいいことを言って、うまくいったのかもしれません。
その後、病気を患って鹿児島に帰り、旧友・西郷隆盛や大久保利通の死を悼みながら、海江田武次はその生涯を終えました。
晩年は、元老院議官となり、ヨーロッパのウィーンも遊学していたといいますが、大河ドラマの海江田武次ならウィーンに「遊学」ではなくて、「遊び」に行ってただけのような気がしますw。