大河ドラマ西郷どん(せごどん)
安政の大地震(全国版)
大河ドラマ西郷どん(せごどん)の第12話で、西郷吉之助や篤姫を襲った安政の大地震は、本来は江戸で発生した地震だけを指すものではありません。
ペリーの黒船来航に日本中が混乱する中、江戸で起きた「安政江戸地震」だけでなはなく、日本各地で大地震が頻発していました。
今回は、幕府の崩壊を早めたとされる日本全国で起きた地震「安政の大地震」について簡単に紹介します。
「安政江戸地震」についてはこちらから
安政の大地震
世にいう「安政の大地震」は、1855年(安政元年)の安政江戸地震を指すことが多いが、前年(嘉永7年)に発生した伊賀上野地震や、南海トラフ巨大地震である安政東海地震と安政南海地震に加え、1858年(安政6年)頃まで発生した日本各地の地震などを含めて「安政の大地震」と総称される。
地震発生年表
【1853年】
黒船を率いたペリーが浦賀に来航して、日本国中が混乱に陥るが、その約4ヶ月前には小田原地震が発生していた。
【1854年】
幕府がアメリカと日米和親条約を締結。京都では禁裏より出火し火災が起こった。
日本中が騒然となる中、7月9日(嘉永7年6月15日)に伊賀上野地震、12月23日(嘉永7年11月4日)には安政東海地震、その翌日には安政南海地震が発生。
この安政東海地震の津波により、ロシアのディアナ号が遭難した。
地震の直前にディアナ号のプチャーチンは下田で幕府閣僚と会見し、川路聖謨から下田が安全な港ではないと聞いたばかりだった。
12月26日(嘉永7年11月7日)に豊予海峡地震が発生。
【1855年】
元号を安政に改元し、幕府は日露和親条約を締結した。
飛騨地震、陸前地震、遠州灘地震が相次いで発生したが、11月11日(安政2年10月2日)には安政江戸地震が江戸を襲った。
この安政江戸地震で、水戸藩氏・藤田東湖、戸田蓬軒が圧死し、以後水戸藩は内部抗争が激化して幕末期の最前線から姿を消していく。
【1856年】
ハリス下田に総領事として着任した2日後、安政八戸沖地震が発生。
その後も江戸、駿河、伊予、安芸で地震が発生した。
【1858年】
飛越、八戸沖で地震が発生。
7月29日(安政5年6月19日)に日米修好通商条約が締結され、続いて蘭、露、英、仏と五カ国条約を締結。
10月11日-(安政5年9月5日-)に安政の大獄が始まる。
【1859年】
石見で地震が発生。
被害
日本全国を襲った大地震で、多くの地域で城郭・住居が倒壊し、その後に火災が発生。
また田畑の沈下や、海岸部では津波、山間部では山が崩れて川が堰き止められたのち土石流が発生している。
中でも大都市江戸の被害は甚大で、幕府による公式調査では死者は4,741人、倒壊家屋が14,346戸とされている。
しかし、これに寺社領や武家屋敷を含めると、死者は1万人を超えていたとも。
南海トラフ地震であった東海、南海地震において、遠江国の舞阪町(現在は浜松市に編入)で津波による死者が無かったのは、甚大な被害をもたらした宝永津波(1707年)の教訓が生かされていたからだという。
また、阿波沿岸でも死者が少なかったのは、前日の東海地震津波の教訓があったからだという。これらの地震津波は、志摩半島の国崎で高さ22.7mと記録したとされている。ちなみに、この国崎地域も明応津波(1498年)を教訓に高所移転していたため被害は最小限で済んでいる。
対応
東海地震津波で被災した下田には、6日後に御救米が到着し、被災した1,065軒に対し総額9,855両が10年返済で貸し与えられた。
南海地震後、土佐藩は泥棒対策の高札を立て、さらに物資の過度の値上げ禁止を禁止した。
安政江戸地震の2日後には、江戸各所で御救小屋が建てられ、炊き出しや御救米が支給された。
さらに幕府は物価高騰抑制・大工の工賃値上げ禁止の町触を出したが、こちらは禁を破る者が続出して数倍から十倍以上まで工賃が高騰している。
影響
幕府は国防のための軍備増強が必要であった時期に、諸藩への復興資金の貸付や、被災者への救援、市中の復興に出費が増加し財政が悪化。
また、諸大名も同じ状況に陥って、国元の被害に加えて江戸屋敷の被災もあり、金・物・人、全ての負担を強いられた。
日本国内が疲弊する中、民衆の間では「世直し」とばかりに地震の発生を歓迎するような鯰絵が流行り、旧体制を崩壊と新しい世の誕生を期待し始め、地震後に水害、コレラ・麻疹の流行、尊王攘夷運動、貿易による物価高騰もあって、幕府の権威は完全に地に落ちていった。