大河ドラマ西郷どん(せごどん)
四侯会議
大河ドラマ西郷どん(せごどん)で、徳川慶喜の将軍就任後、薩摩藩は政治の主導権を幕府から雄藩連合側へ奪取することを画策し「四侯会議」を成立させます。
以前、島津久光が「芋」と罵られた「参預会議」の再現となったこの会議でしたが、今回も慶喜の巧みな操作によってあっという間に崩壊してしました。
この記事では、薩摩藩が完全に武力討幕に舵を切る原因となった「四侯会議」について簡単に紹介します。
オレの勝ちだ!
四侯会議
第二次長州征討の最中、14代将軍・徳川家茂が急死し、徳川慶喜が征夷大将軍に就任。
慶喜は第二次長州征伐に失敗するなど、失墜していた幕府の権威を公武合体によって回復させ、政治の主導権を握ろうとしていた。
一方、「薩長同盟」を締結した薩摩藩は、長州藩の名誉回復に尽力するとともに、政治の主導権を幕府から雄藩連合側へ奪取し、朝廷を中心とした公武合体の政治体制へ変革しようと考えていた。
そこで薩摩藩の小松帯刀、西郷隆盛、大久保利通らは雄藩諸侯らを上京させて、慶応3年(1867年)5月に将軍・徳川慶喜や摂政・二条斉敬に対し意見を問い求める機関として「四侯会議」を成立させた。
私の出番ですかな?
メンバーは、島津久光(薩摩藩主の父)、松平春嶽(前越前藩主)、山内容堂(前土佐藩主)、伊達宗城(前宇和島藩主)。
しかし、この「四侯会議」は長州問題と兵庫開港問題のどちらを優先するかで対立。
慶喜は会議が薩摩主導の流れになってしまうことを恐れ、反対の立場を取って四侯側を上手くあしらった。
このため、島津久光、山内容堂が早々に離脱し、慶喜は松平春嶽・伊達宗城らと共に朝廷との会議に臨んだ。
兵庫開港許可を求める慶喜に対し、朝廷の抵抗は激しく夜中にまで会議が及んだが、慶喜は朝廷を押し切って明治天皇の兵庫開港の勅許を得ることに成功。
この慶喜主導による勅許の獲得は、実質的に四侯会議の失敗を意味していた。
このため薩摩藩は会議で幕府を牽制するのは不可能であると考え、武力討幕に向けて舵を切ることとなる。
一方、早々に「四侯会議」に見切りをつけていた土佐の山内容堂は、薩摩藩と距離を置いて徳川家擁護の姿勢を深めていった。
武力討幕へ!