大河ドラマ西郷どん(せごどん)
島津重豪(しげひで)
大河ドラマ西郷どん(せごどん)で、江戸から帰国した島津斉彬は、薩摩藩士を集めて砲術訓練を実施しようと父・斉興のもとを訪れます。
しかし、薩摩藩の財政を預かる調書広郷は「そんなことをすれば藩の財政は火の車」と意見し、斉興も「先々代の5百万両の借金が調書のおかげで目途が立ったところ」だと猛反対。
結局、斉彬は訓練実施を諦め「いずれ日本は清国のように乗っ取られてしまう」と捨て台詞を吐いていきました。
今回、取り上げるのは斉興が言った「先々代」。斉彬にとっては曾祖父にあたる島津重豪。
斉彬の人間形成に、大きな影響を与えた島津重豪について簡単に紹介していきます。
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島津重豪(しげひで)
島津氏第25代当主で、薩摩藩の第8代藩主。
延享2年(1745年)に分家の加治木島津家の当主・島津久門(重年)の長男として誕生した。
父が本家に復して薩摩藩主となり、その後死去。重豪は11歳で家督を継いだが、年少のために祖父・島津継豊が藩政を担った。
宝暦10年(1760年)に祖父が死去すると、継豊の弟・島津貴儔が藩政の実権を握ったが、3年後に重豪が親政を開始して藩政改革に取り組んだ。
重豪は長崎のオランダ商館に行き、オランダ船に搭乗するなど、蘭学に興味を抱き「蘭癖大名」と呼ばれた。
薩摩では、藩校・造士館や、武芸稽古場・演武館を設立して教育の普及に努め、暦学や天文学の研究を行う明時館(天文館)や医学院までも設立している。
また、これらの学問所を百姓町人にも開放して教育の機会を与えている。
天明7年(1787年)、重豪は隠居して家督を長男・斉宣に譲ったが、実権は重豪が握り続ける。
文化6年(1809年)に華美な生活を好む重豪のせいで財政的に圧迫された薩摩藩は、藩主・斉宣が緊縮財政政策を実施しようとした。
しかし、重豪は大反対。斉宣を隠居させて孫の島津斉興を藩主とし、重豪は後見人になって政権を握る。
晩年に重豪は、ようやく藩の財政改革に取り組み、下級武士の調所広郷を重用。
天保4年(1833年)に89歳で死去した。
オランダ語を話すこともできたといわれる重豪は、曾孫の島津斉彬を幼少の頃から可愛がり、斉彬を連れてシーボルトと会見して西洋の情況を聞いたりしていた。
重豪の死後、登用した調書広郷が活躍し、薩摩藩の財政が立て直し始め、可愛がられていた斉彬は、欧米列強の技術に触れて薩摩藩の富国強兵を目指していく。
良くも悪くも島津重豪がいなければ、のちの薩摩藩の躍進はなかった。