大河ドラマ西郷どん(せごどん)
伊藤俊輔(博文)
大河ドラマ西郷どん(せごどん)の第32話では、浜野謙太が演じる長州藩士・伊藤俊輔が登場。
長州藩の代表ともいうべき桂小五郎の付き添いのような役割をしていますが、この人こそ明治維新後に初代内閣総理大臣となる「伊藤博文」。
大河ドラマの中での伊藤俊輔は「薩長同盟」のカギを握る一枚の写真を持っており、物語を盛り上げてくれます。
優れた政治家として明治時代を牽引した「伊藤俊輔(伊藤博文)」の生涯は簡単には語ることができませんが、この記事では難しい話を削りまくって超簡単にまとめてみました。
伊藤俊輔(博文)
英国留学
伊藤俊輔(博文)は、天保12年(1841)に周防国の農民・林重蔵の長男として生まれた。
幼名は「利助」といい、のちに「俊輔」、「博文」を名乗った。
父の破産後、俊輔は足軽身分の長州藩士の養子となり、伊藤へ改姓。
貧乏だった伊藤俊輔は吉田利麿に世話になりながら、吉田松陰の松下村塾に入門する。
しかし、身分が低いため塾の敷居をまたぐことは許されず、戸外で立ったままの聴講していたという。
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その後、高杉晋作、久坂玄瑞ら塾生と共に尊王攘夷活動に参加する一方で、海外渡航を考えるようになり、文久3年(1863)に井上馨らと共に長州五傑(長州ファイブ)の一人として英国に渡航した。
伊藤俊輔は英国で国力の差に圧倒され、自らの思想を開国論に転換。
元治元年(1864)に、米英仏蘭4国連合艦隊による長州藩攻撃が近いことを知ると、井上馨と共に帰国して戦争回避に奔走した。
長州ファイブと薩摩藩留学生の交流
この年、伊藤俊輔は高杉晋作に従ってクーデターを起こし、幕府に恭順姿勢を見せる俗論党を一掃して長州藩を倒幕路線に乗せることに成功。
しかし、江戸から明治に時代が移り変わる中で、その後の伊藤俊輔の目立った活躍はなく、第二次長州征伐や戊辰戦争にも加勢できなかった。
明治新政府
明治維新後、伊藤俊輔は「博文」と改名し、木戸孝允の後ろ盾で長州閥の有力者として、英語に堪能な事を買われて様々な要職を歴任する。
明治4年(1871)には岩倉使節団の副使として欧米諸国を視察するが、この時に伊藤博文は大久保利通と接近したため、のちの木戸、大久保の対立を招いたとされる。
また、伊藤博文は西南戦争が勃発すると、西郷隆盛を説得しようとした大久保利通に意見し、薩摩行きを断念させた。
その後、大久保利通が暗殺されると、伊藤博文は大隈重信との政争に勝利して、名実ともに明治政府の中心人物となり大日本帝国憲法を起草。
明治18年(1885)に、44歳で初代内閣総理大臣に就任した。
伊藤博文は、その後も初代枢密院議長、貴族院議長を歴任し、日清、日露戦争を経て韓国統監に就任したが、明治42年(1909)に中国のハルビン駅で韓国人の安重根に暗殺された。享年68。