大河ドラマ西郷どん(せごどん)
薩長同盟締結の切り札となった
薩摩と長州の留学生の写真
大河ドラマ西郷どん(せごどん)の第32話では、憎み合っていた薩摩藩と長州藩がついに同盟を締結しました。
この薩長同盟締結の切り札となったのが、坂本龍馬が伊藤俊輔に渡していた一枚の写真でした。
この写真はイギリスに留学している薩摩藩士と長州藩士が一緒に写っており、これを見た西郷吉之助、大久保一蔵、桂小五郎たちは遠い異国の地にあっては長州も薩摩もなく、「日本人」という一つの国民として助け合う姿に感動し、いがみあう自分たちの愚かさを知ったわけです。
はたして、歴史を動かす重要なアイテムとなった写真は実在するのでしょうか?そして本当にイギリスに留学していた薩摩藩と長州藩の留学生の交流は事実なのでしょうか?
この記事では、五代友厚ら「薩摩藩第一次英国留学生」と伊藤博文ら「長州ファイブ(長州五傑)」の交流について紹介します。
薩摩藩と長州藩の留学生
【薩摩藩】薩摩藩第一次英国留学生
イギリスに留学した薩摩藩の留学生たちは「薩摩藩第一次英国留学生」と呼ばれています。
文久3年(1863)の薩英戦争を機に、薩摩藩では海外に通じた人材養成の気運が高まりました。
発端となったのは、薩英戦争でイギリス軍の捕虜となった五代友厚は、戦後に欧州への留学生派遣を藩に上申したことです。
これを認めた薩摩藩は洋学校「開成所」の学生たちの派遣を決定し、元治2年(1865)に選抜された町田久成、森有礼ら15名の留学生たちが五代友厚ら外交使節団とともに出国しました。
イギリス到着後、留学生たちは語学研修を経て、ロンドン大学に入学。
この時に、先に入学していた長州藩の留学生2名とともに学びました。
その後、この留学生たちは経済的理由によって一年後に約半数が帰国し、残った留学生も明治元年(1868)頃に帰国しています。
【長州藩】長州ファイブ(長州五傑)
イギリスに留学した長州藩の留学生たちは「長州ファイブ」、「長州五傑」と呼ばれています。
文久3年(1863)に長州藩は、井上聞多(馨)、山尾庸三、野村弥吉(井上勝)の3名に海外派遣の命を下しました。
その後、遠藤謹助、伊藤俊輔(博文)の2人が増え、5人で渡航を目指して金策に走り、無事に密航することに成功します。
同年、5人はイギリスに到着すると、ロンドン大学に入学。
イギリスの先進性を目の当たりにして「攘夷」の無謀さを知りました。
元治元年(1864)、長州藩による外国船砲撃事件が発生。
事件の報道に驚いた井上馨と伊藤俊輔は「攘夷」を止めるため帰国を決意し、イギリスには遠藤謹助、野村弥吉、山尾庸三が残りました。
イギリスに残った3名は、元治2年(1865)に派遣された薩摩藩の留学生の存在を知って交遊しています。
その後、遠藤謹助は慶応2年(1866)、野村弥吉と山尾庸三は明治元年(1869)に帰国し、それぞれ明治新政府のそれぞれ重要ポストに就いていきました。
留学生たちの交遊
上記のとおり、薩摩藩と長州藩の留学生たちの交流は行われていたことは事実です。
この頃、長州藩士は薩摩のことを「薩賊」と呼んで嫌っていました。
しかし、日本から遠く離れたイギリスにあって「寂しさ」と「苦労」を分かち合えるのは、先にイギリスに来ていた薩摩藩士しかいませんでした。
残念ながら、大河ドラマ西郷どん(せごどん)のような両藩の留学生が一緒に写っている写真は実在しませんが、留学生たちは異国の地で「藩」という小さな枠にとらわれる愚かさを知り、「日本」という国家のために共に尽くすと語り合ったことでしょう。
そんな留学生たちの心情を素晴らしく描いた映画があります。
それが歴史物の映画の中で最高峰ともいうべき作品「長州ファイブ」。
登場する人物と雰囲気、全てが完璧。(最後はちょっとあっけないけど)
幕末に興味があるけど見ていない方は、「西郷どん」と同時に「長州ファイブ」を見ると『これが同じ時代の話なのか』と衝撃を受けると思います。
下にYouTube張っておきます。
オススメは1:10頃からの長州藩士と薩摩藩士の友情ですが、是非、幕末の侍の気分になって最初から見てみて!
https://youtu.be/nht9fODQk3o