大河ドラマ西郷どん(せごどん)
松平宗秀(本庄宗秀)
大河ドラマ西郷どん(せごどん)の第30話で、天皇の寵愛を受けて権力を強める一橋慶喜は、幕府によって天皇から遠ざけられようとしていました。
幕府本体にとっては、江戸と距離を置き独立した政権のような形を取った一橋慶喜が危険視されていたのです。
この時、京都に派遣された幕府老中が「松平宗秀(本庄宗秀)」と「阿部正外」でした。
今回は、この「松平宗秀」について簡単に紹介していきます。
松平宗秀(本庄宗秀)
安政の大獄に関与した宗秀
松平宗秀は、丹後宮津藩4代藩主・松平宗允の三男として文化6年(1809)に生まれました。
幼くして父を失い、叔父の宗発が5代藩主となりますが、天保11年(1840)には宗秀が家督を相続しました。
藩主となった宗秀は、参勤交代で江戸と宮津を往復しているうちに富士山の登頂を考え始め、幕府からの許可が出ないので、嘉永6年(1852)に内緒で登頂を成し遂げたといいます。
政治の面では、宗秀は寺社奉行として大老・井伊直弼のもと安政の大獄に協力し、多くの志士を処罰しました。
井伊直弼からの信頼を得た宗秀は大坂城代となりますが、井伊直弼死後の文久2年(1862) に京都所司代に任命されると、安政の大獄に関わった宗秀の起用に朝廷が猛反発します。
結局、幕府内からも反対意見が出されたため、宗秀は赴任することなく更迭されてしまいました。
その後、宗秀は安政の大獄関係者としてマイナス要素を背負いながらも、老中にまで昇進して幕政に関与していきました。
のちに藩を助けた宗秀の英断
慶応元年(1865)、一橋慶喜は天皇の直臣として京都で発言権を強め、幕府から独立したような体を取っていました。
これを危険視した宗秀は、阿部正外とともに幕府軍4千を率いて上洛し、慶喜を江戸へ連行して幕府の統制下に置こうとします。
しかし、これが逆に朝廷の反感を買ってしまい、将軍・徳川家茂の上洛を要請されてしまいました。
慶応2年(1866)、第二次長州征伐で宗秀は安芸広島に出陣し、幕府軍の指揮を執ります。
敗北を重ねる幕府軍の中、宗秀は和平工作を図り、捕虜となっていた長州藩家老2名を独断で釈放しました。
しかし、これが発覚すると宗秀は老中を罷免され、隠居謹慎を命じられてしまいました。
鳥羽・伏見の戦いの際、旧幕府方であった宮津藩は責任を追及され、藩兵を率いた重臣2名を切腹させようとしました。
しかし、この時に長州藩から新政府に対し、長州征伐の際の家老2名の釈放の功績と引換えに2名を助命するよう申入れがあり、宮津藩は許されます。
維新後、宗秀は新政府に出仕し、伊勢神宮の大宮司などを務めて1873年(明治6)に65歳で死去しました。