大河ドラマ西郷どん(せごどん)
西郷菊草(大山菊草)
大河ドラマ西郷どん(せごどん)で二階堂ふみが演じる「愛加那(とぅま)」と西郷が別れた後に生まれるのが西郷隆盛の一人娘・西郷菊草(大山菊草)。
幸せな生活を捨てて、薩摩に戻ってしまう西郷吉之助(隆盛)は、この菊草の誕生を見ることなく奄美大島を去っていきました。
今回は、西郷隆盛の一人娘で、のちに大山誠之助を結婚してDVに苦しんだ西郷菊草(大山菊草)の生涯について、簡単に紹介していきます。
西郷菊草(大山菊草)
西郷菊草(きくそう)は奄美大島に潜居していた西郷隆盛と愛加那(とぅま)の長女として、文久2年(1862)に生まれました。
西郷と愛加那が結婚したのち兄・菊次郎が生まれましたが、菊草については西郷が奄美大島を去って半年後に誕生しています。
このとき西郷は再び島に流されて徳之島にいたため、大島代官所の木場伝内からの手紙で菊草の誕生を知ったといいます。
その後、徳之島に西郷がいることを知った母・愛加那は、菊次郎と菊草を連れて島を渡りますが、すでに西郷には沖永良部島への遠島命令が届いており、愛加那親子は奄美大島に帰されました。
1年半後、西郷は許され沖永良部島から鹿児島に帰還する途中で奄美大島の龍郷に立ち寄り、親子は3泊4日を共に過ごしました。
このとき菊草は1歳8カ月なので、父の顔どころか会ったことも覚えてていなかったでしょう。
やがて元治2年(1865年)に西郷が鹿児島で岩山糸と結婚すると、西郷は母・愛加那に反物二反を送り、菊次郎と菊草を引き取らせて欲しいと頼みました。
しかし、この時は二人とも父のもとに引き取られることはなく、話は流れています。
明治2年(1869)になって、やっと兄の菊次郎が鹿児島の西郷家に引き取られましたが、菊草は奄美大島に残ったままでした。
西郷は菊草のことも諦めきれず、明治6年(1873)に愛加那宛てに手紙を送り、菊次郎のアメリカ留学の報告がてら、菊草のことを思い出すので、母娘で本土に登ってくるように頼んでいます。
実際、西郷が菊草のことを思い出すといっても、会っているのは奄美での3泊4日だけなのですが、西郷の脳裏には奄美大島に残した一人娘のことが強烈に焼き付いていたのでしょう。
その直後、西郷は叔父の椎原国幹に奄美大島に行って菊草を連れてくるよう依頼しましたが、この時も話は流れてしまいました。
しかし、そんな菊草も明治7年~8年頃についに西郷家に引き取られます。
この頃、鹿児島に滞在した元庄内藩士は、西郷に会うことを楽しみにしていましたが、西郷は菊草が病気になってしまったために相手をしてもらえず残念だったと語っています。
それほどまでに西郷は、引き取ったばかりの一人娘・菊草を大事にしていました。
明治9年(1876)、14歳になった菊草は従兄弟にあたる大山誠之助と婚約しました。
翌年、西南戦争が起こると兄の菊次郎、婚約者の大山誠之助は出陣し、菊草は西郷家の女子らとともに避難生活を送ります。
その後、負傷して鹿児島に帰って来た兄・菊次郎とともに菊草は父の死の知らせを聞きました。
菊草と西郷の親子としての生活は、わずか2年~3年しかありませんでした。
終戦後、菊草は菊次郎と共に暮らし、奄美大島の母に何回か手紙を書いています。
明治12年(1879)になって婚約者の大山誠之助が釈放され、鹿児島に帰って来ると、翌年に結婚。菊草は17歳になっていました。
その後十余年の記録は無く、結婚生活に関してはあまり分かっていません。
菊草は4人の子を授かりましたが、夫の借金やDVにより苦しんだといいます。
明治26年(1893)、義兄の大山巌は菊次郎に宛てて「誠之助がまた例の不始末をおこして面倒をかけ実に面目ない。家族集まって相談するつもりだ」という内容の手紙を書いています。
この後、誠之助の借財整理のため鹿児島の大山家は処分され、誠之助一家は東京に移りました。
そして菊草の産んだ子供たちは大山巌に引き取られ、誠之助・菊草夫妻は大山巌の援助を受けて暮らしていたといわれています。
明治35年(1902)、母の愛加那が死亡。菊草は奄美大島を離れて以来、一度も島には帰らず母とも会うことはありませんでした。
ちなみに兄の菊次郎は、菊草が結婚したあと数年の間、奄美大島で愛加那と暮らしているので、愛加那は娘・菊草のことは菊次郎から聞いていたでしょう。
明治40年(1907)頃、菊草は夫との別居が叶います。
菊草は京都市長となっていた菊次郎のもとへ身を寄せ、誠之助は大山巌邸の敷地内に家を建ててもらった息子の慶吉宅に転がり込みました。
その後、菊草は明治42年(1909)に京都で死去。享年47。
夫のDVに苦しんだ菊草でしたが、最後は兄のもとで平穏な生活を送っていました。
そんな兄妹の写真が最近見つかっています。