大河ドラマ西郷どん(せごどん)
薩長同盟
大河ドラマ西郷どん(せごどん)の第32話で成立する薩摩藩と長州藩の「薩長同盟」。
一橋慶喜との決裂以降、「倒幕」を考えるようになった西郷吉之助は大久保一蔵らと薩摩藩の藩論転換を図り、岩倉具視や坂本龍馬の協力を得て長州藩と手を結ぶことを目指していました。
その後、幼馴染の海江田武次に裏切れる一幕もありましたが、「薩長同盟」は無事に締結され、時代は吉之助が目指す「倒幕」に一気に傾いていきます。
この記事では、日本という国家のため、薩摩藩、長州藩が藩という枠組みを超え手を握り合った「薩長同盟」の経緯と、その内容について簡単に紹介します。
薩長同盟
同盟以前の薩長の思惑
江戸時代末期、薩摩藩と長州藩は互いに『雄藩』として中央政界に大きな影響力を持っていた。
そんな中、ペリー来航によって国内情勢は混乱し、幕府は日本の統治者としての弱体化を露呈。
これに伴って、朝廷の権威は著しく高まっていた。
国内情勢の安定を図るため、薩摩藩は開国路線を支持しながらも、朝廷と幕府を結び付けて幕府権威の上昇を図る「公武合体」を推進し、幕政の改革を求めた。
一方、長州藩は早急に条約破棄、攘夷論を唱えて幕府による開国を完全否定していた。
孝明天皇は強固な攘夷論者であったため、桜田門外の変で幕府大老・井伊直弼が殺されると、「尊王攘夷」を牽引していた長州藩は朝廷内に食い込んで大きな影響力を持つようになっていった。
薩長の対立
長州藩は朝廷で影響力を発揮していたものの、孝明天皇自身は過激な尊王攘夷志士たちを嫌っており、幕府主導による攘夷を望んで一橋慶喜や松平容保を信頼するなど「公武合体」寄った人物だった。
このため、京都での長州藩の躍進を快く思っていなかった薩摩藩は、文久3年(1863)に会津藩や公武合体派公家と協力してクーデターを起こし、長州藩を京都政界からの追放に成功する。(八月十八日の政変)
さらに薩摩藩は、勢力挽回のため上京出兵してきた長州藩兵と戦って敗走させた。(禁門の変)
これらのことから薩長の敵対関係は激化し、長州では薩摩のことを「薩賊」と呼んで憎むようになっていった。
薩長同盟締結
禁門の変後、朝敵となった長州藩は幕府から長州征伐を受けるなど苦境に立たされる一方で、薩摩藩は一橋慶喜との対立によって幕政改革が進まず、西郷隆盛や大久保利通らを中心に幕府に対する強硬論が噴出することとなった。
すると第一次長州征伐の中止、福岡藩の尊皇攘夷派による高杉晋作と西郷隆盛の会談などが契機となり、薩長の和睦への機運が高まっていく。
さらに長崎で亀山社中を率いていた土佐脱藩浪士・坂本龍馬や中岡慎太郎の斡旋もあり、薩長は会談に向けて準備が進められていった。
一時、下関での会談を西郷隆盛がすっぽかして長州藩が激怒する一幕があったものの、薩長は慶応2年1月21日(1866年3月7日)に京都の小松帯刀邸において同盟を締結する。
薩摩藩代表は西郷隆盛、小松帯刀、長州藩代表は木戸貫治(桂小五郎から改名、のちの木戸孝允)であった。
薩長同盟の内容
全6か条からなった薩長同盟は、第一条で長州で戦争が起こった場合、薩摩が京都・大坂に出兵して幕府に圧力を加えること、第二条から第四条では戦争が落ち着く、落ち着かないに関係なく、薩摩は長州の政治的復権のために朝廷工作を行うことが記され、第五条では薩摩が第一条により出兵して幕府に圧力を加えても、橋会桑(一橋慶喜、会津藩、桑名藩)が朝廷を牛耳り、薩摩の要求を拒むようであれば戦闘する覚悟であると表明している。
この薩長同盟は、決して「倒幕」に向けて両藩が積極的に動き出そうとしたものではなく、当時の京都政界を制圧していた一橋慶喜、会津藩、桑名藩に対するものであった。
薩長同盟が結ばれた会談の内容はその場で記録されず、正式な盟約書も残されなかったため、木戸貫治が記憶を頼りに内容を6カ条にまとめ、内容確認のため坂本龍馬に送付した書簡だけが残っている。
坂本龍馬はこの書簡の裏面に「表に御記成被候六条は小西両氏及老兄龍等も御同席にて談論せし所にて毛も相違これ無き候、後来といへとも決して変り候事はこれ無きは神明の知る所に御座候」と朱書して返信した。
この同盟によって薩摩藩は幕府が決定した第二次長州征伐への出兵を拒否して対決姿勢を示し、薩長間の連携は深まっていくこととなった。
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