大河ドラマ西郷どん(せごどん)
パークス
大河ドラマ西郷どんの第33話、薩長同盟が締結された1カ月後、薩摩にイギリス公使のパークスがやってきます。
このパークスの訪問には、幕府が長州再征伐に目を向けている間にイギリスと結んで力を蓄えようとする薩摩藩の思惑がありました。
このため吉之助は龍馬に協力を依頼し、公使をもてなす準備を整えましたが、当日になって薩摩藩はなかなか本題を切り出さず、結局パークスを怒らせてしまいます。
すると、吉之助はパークスに会おうとする島津久光を制して自ら船に乗り込み、腹を割って話すことでパークスからの信頼を勝ち取りました。
その後、パークスは薩摩など反幕府勢力と積極的に交流し、時代は明治維新に向かっていきますが、今回はちょっとキレやすい人物、イギリス公使「パークス」について簡単に紹介します。
パークス
中国で活躍したパークス
サー・ハリー・スミス・パークスは、1828年にイングランドで鉄工場主の長男として誕生。
幼くして両親を相次いで亡くし、叔父のもとに引き取られた。
その叔父も亡くしたパークスは、中国で暮らしていた姉を頼ってマカオへ行き、中国語の勉強しながら英国全権の秘書のもとで働き始める。
その後、中国でアヘン戦争を経験し、その講和条約である南京条約調印にも立ち会ったパークスは、1843年に15歳で広東のイギリス領事館に採用された。
翌年には廈門領事・オールコックのもとで通訳として働き、やがてパークスは領事に就任。
さらに1856年、広東領事としてアロー号事件に介入するなど活躍の舞台を通訳から外交官へと広げていった。
しかし、パークスの仕事は常に危険と隣り合わせで、1860年には交渉中に清軍に拉致られて北京で投獄されたりもしている。
その後、パークスは日本公使に転任していたかつての上司・オールコックに認められ、1864年には上海領事となった。
一方、日本では長州藩が起こした四国艦隊下関砲撃事件に際して、公使・オールコックは各国をまとめて報復攻撃を主導していた。
しかし、この行動は日本との全面戦争を回避したいイギリス本国の意に沿うものではなかったため、オールコックは解任されてしまう。
これにより、パークスがオールコックの後任公使に任命され、日本に赴任することになった。
駐日公使・パークス
パークスが日本に到着した時は、長州征伐の真っ最中であった。
このため幕府との交渉は満足に出来ず、パークスはフランス、オランダ、アメリカと足並みをそろえて幕府や朝廷を威圧的立場を取る。
しかしその後、フランス公使・ロッシュが幕府を支援して自国の政治的有利を確立しようとしたのに対し、パークスは表面上は中立を保ちながらも、下関で長州藩の高杉晋作や伊藤博文と会談したり、長崎のグラバーの仲介で鹿児島において薩摩藩主・島津茂久や島津久光、西郷隆盛と会見して幕府以外からの情報収集に務め、フランスを出し抜いていった。
ちなみに、幕府を支援していたロッシュとパークスはお互いに憎みあい、嫉妬しあう間柄だったという。
パークスは徳川慶喜とも会見を行うなど精力的に活動していくが、王政復古の大号令ののち、戊辰戦争が始まると各国公使団を説得して中立を宣言し、明治新政府が樹立すると明治天皇への謁見が許された。
天皇への謁見の際、パークスは御所に向かう途中で二名の暴漢から襲撃を受け、護衛の後藤象二郎に助けられるなど、相変わらず身の回りには危険がつきまとっていた。
その後、パークスは慶喜処分案や江戸無血開城に影響を与え、明治維新後は日本に対して西洋文明の導入を推進するなど、日本の近代化と日英交流に貢献していった。
そして滞日18年目となった1883年(明治16年)、パークスは清国公使となって日本を離れ、1885年に北京でマラリアにかかり死去。享年57。
幕末動乱の中でも、パークスは箱根旅行や富士山登頂など休暇を楽しむなど、西洋人らしく公使はただの「仕事」と割り切っていたように見える。
近代日本の発展に貢献した優れた外交官であったが、すぐにキレてしまう人間であったために交渉相手からは嫌われることも多かった。
部下であったアーネスト・サトウなども「性格には問題あり」と語っている。
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