大河ドラマ西郷どん(せごどん)
奇兵隊・遊撃隊・御楯隊
大河ドラマ西郷どん(せごどん)の第32話、下関での長州藩との会見をすっぽかしてしまった西郷吉之助は、長州藩だけでなく岩倉具視にも見限られてしまい窮地に陥ります。
しかし、そんな時に頼りになったのは盟友・大久保一蔵でした。大久保一蔵は「天皇が認めても天下万民が納得できなければ、長州再征伐の勅許などは勅命ではない」との書状を各国にバラまき、次第に諸藩は長州再征伐に慎重になっていきます。
そして長州にも一蔵の書状は届き、伊藤俊輔をはじめ高杉晋作、奇兵隊、遊撃隊、御楯隊など諸隊の者たちを感動させました。
この記事では、一蔵の書状により薩摩の憎悪を緩めた長州藩士たち「奇兵隊・遊撃隊・御楯隊」について簡単に紹介します。
奇兵隊(きへいたい)
奇兵隊結成
「奇兵」とは正規の武士を意味する「正規兵」の反対語で、「奇兵隊」は藩士・武士だけで組織されていた「撰鋒隊」に対する反対語。
奇兵隊は、文久3年(1863)の下関戦争の後、高杉晋作らの発案によって藩士と藩士以外の武士・庶民からなる混成部隊として結成された。
本拠地は尊王攘夷運動を支援していた商人・白石正一郎邸に置かれ、のちに赤間神宮へ移った。
奇兵隊の結成当初の目的は、外国艦隊からの防備であり、隊士には藩庁から給与が支給された長州藩の正規常備軍であった。
隊士は隊舎で起居して兵学者・大村益次郎の下で訓練に励み、銃隊や砲隊などを組織して最新兵器を取り扱っていた。
その後、この奇兵隊結成に影響を受け、長州では多くの部隊が編制され、長州藩諸隊と総称されることとなった。
高杉晋作と奇兵隊
高杉晋作は、奇兵隊が撰鋒隊と衝突した教法寺事件の責めを負って総督を更迭されたが、その後、赤禰武人や軍監の山県狂介が奇兵隊を引継いでいった。
この頃、京都では長州藩が八月十八日の政変によって朝廷から追放され、続く禁門の変では「朝敵」にまでされてしまう。
幕府が第一次長州征伐を開始すると奇兵隊は戦闘に参加したが、長州藩内部では保守勢力「俗論党」が主導権を握ったため、藩は幕府に恭順の意を示して講和に至ってしまう。
しかしその後、亡命していた高杉晋作が帰藩して挙兵すると、長州藩の方針は「倒幕」に転換。
再び背き始めた長州に対し、幕府は第二次長州征伐を開始するも、長州藩は奇兵隊ほか諸隊が奮戦して大勝利を得た。
その後、時代は薩長同盟、大政奉還を経て、新政府が樹立。
奇兵隊は新政府軍の一部となり、戊辰戦争で旧幕府軍と戦った。
大河ドラマ「龍馬伝」の高杉晋作
その後の奇兵隊
明治2年(1869)、版籍奉還が実施されると、藩知事・毛利元徳は藩政改革を断行する。
これによって奇兵隊を含む長州諸隊5000余名のうち、3000余名は解雇され職を失った。
再雇用されたのは正規軍の人間ばかりで、各地を転戦した平民出身の隊士ばかりが失職となったため、旧奇兵隊士の一部などが脱隊騒動を起こし、明治3年(1870)に山口藩議事館を包囲する。
付近の農民一揆も合流し、1800人にまで膨れ上がった反乱に、事態を重く見た木戸孝允は直接鎮圧の指揮をとって鎮圧に乗り出した。
小郡と防府で激戦が繰り広げられたこの戦いでは、鎮圧後に多くの者が処罰されて命を落とした。
大楽源太郎は戦闘にも参加していなかったが、脱隊騒動の首謀者とされたため九州へ逃亡し、明治政府の打倒を画策し始めた。
しかし、大楽源太郎は飛び火を恐れた久留米藩によって処断され、事件は終わりを告げる。
この事件は、明治時代初期に多発した士族反乱にも影響を与え、参議・前原一誠は脱隊者の討伐に猛反対して木戸孝允と対立したのち、要職を辞して萩の乱を起こすことになる。
大河ドラマ「花燃ゆ」の前原一誠
遊撃隊(ゆうげきたい)
遊撃隊は、幕末期に長州藩で結成された隊の一つ。
文久3年(1863)、高杉晋作が奇兵隊を創設すると、触発された来島又兵衛が周防国で町人・農民・浪士らを集めて遊撃隊を結成し、初代総督となった。
この遊撃隊には、土佐藩を脱藩した池内蔵太や中島信行、元天誅組の上田宗児らも加わっている。
元治元年(1864)の禁門の変に先鋒として参戦した遊撃隊だったが、総督・来島又兵衛はあえなく戦死。
来島又兵衛の死後、石川小五郎が隊を引き継いで総督となり指揮を取った。
元治元年(1865)、高杉晋作が挙兵すると、これに呼応して俗論党と戦い勝利に貢献し、その後、遊撃隊は藩の正規軍として公認され、俸給・武器弾薬等を支給されようになった。
その後、慶応2年(1866)の第二次長州征伐では芸州口で幕府軍と応戦し、のちの戊辰戦争でも倒幕軍として活躍。
しかし、戦争終結後の冷遇に不満を募らせた隊士らの反乱が勃発し、遊撃隊からは200名を超える隊士が参加して中心勢力となるも、間もなく新政府によって鎮圧された。
大河ドラマ「西郷どん」の来島又兵衛
御楯隊(みたてたい)
御楯隊は、幕末期に長州藩で結成された隊の一つ。
元治元年(1864)禁門の変に破れたのち、太田市之進、山田顕義、品川弥二郎らが中心となって結成した。
総督は太田市之進で、三田尻を屯所として隊士は約230名。
高杉晋作が功山寺にて挙兵すると、これに呼応して俗論党と戦い、呑水、赤村の戦いなどで活躍し、第二次長州征伐では、芸州口方面で遊撃隊などと共に幕府軍と戦った。
慶応3年(1867年)に鴻城隊と合併し、整武隊となった。
大河ドラマ「花燃ゆ」の品川弥二郎
西郷どん(せごどん)あらすじ
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