大河ドラマ西郷どん(せごどん)
一橋慶喜(慶喜①)
大河ドラマ西郷どんで、ふきの働く磯田屋の常連客として登場する「ヒー様」と呼ばれる男。
実はこの「ヒー様」が、のちの徳川幕府最後の将軍・徳川慶喜。
この頃は、御三卿の一橋家の養子になっていて一橋慶喜と名乗っていたため「ヒー様」と呼ばれている。たぶん・・・w
この一橋慶喜は、一見遊び人のような雰囲気を漂わせていますが、実は優れた人物として評判であり、ペリー来航以来の国難を解決するため、父の徳川斉昭や島津斉彬から次期将軍候補に推薦されました。
史実でも一橋慶喜は将軍になることを渋っているため、大河ドラマの一橋慶喜も推薦されることを迷惑がっていますが、西郷吉之助(隆盛)と出会いをきっかけに一橋慶喜の気持ちも変わっていきます。
今回は、徳川慶喜が将軍に就任する以前の「一橋慶喜」時代について簡単に紹介します。
将軍就任後の慶喜はこちら
一橋慶喜役 松田翔太
徳川慶喜(一橋慶喜)①
慶喜は、天保8年(1837年)に江戸・小石川の水戸藩邸にて第9代藩主・徳川斉昭の七男として生まれた。
母は正室・吉子女王。幼名は松平七郎麻呂。
七郎麻呂は水戸に移って育てられ、藩校・弘道館では会沢正志斎らに学問・武術を教授された。
七郎麻呂は幼少期から注目されていた人物で、斉昭も慶喜を養子に出さず、長男・慶篤の控えとして手許に置いていた。
弘化4年(1847年)、将軍・徳川家慶の意向で七郎麻呂は御三卿・一橋家を相続し、家慶から偏諱を賜わり慶喜と名乗った。
家慶には病弱な家定しか子がおらず、一橋慶喜を将軍後継者の有力候補として考えていたが、阿部正弘に反対され断念。
嘉永6年(1853年)に黒船来航で国内が混乱する中、家慶は病死して家定が将軍に就いたが、すぐにその後の将軍後継者について議論される。
慶喜を推す徳川斉昭、阿部正弘、島津斉彬、松平慶永ら一橋派と、紀州藩主・徳川慶福を推す井伊直弼や大奥の南紀派に分かれ、激しく対立した将軍後継者問題は、大老に就任した井伊直弼によって慶福(家茂に改名)に決定された。
慶喜は「将軍になって失敗するより、最初から将軍にならない方がいい」と父に言っているように、もともと将軍になることに乗り気ではなく、徳川斉昭らが無理矢理担ぎ上げた感もいなめない。
その後、井伊直弼が天皇の勅許を得ずに日米修好通商条約を調印すると、慶喜は斉昭、松平慶永らと共に登城し直弼を責めたが、逆に安政6年(1859年)に隠居、謹慎処分を申し付けられる(安政の大獄)。
この時、斉昭や慶永は無断登城の罪で処分されたが、慶喜はそもそもこの日が登城日であったため、完全に言い掛かりをつけた不当な処分であった。
安政7年(1860年)、桜田門外の変で井伊直弼の死ぬと、慶喜は謹慎が解かれる。
文久2年(1862年)に天皇の勅命として島津久光が江戸に入り、幕府人事へ介入すると慶喜を将軍後見職に、松平春嶽を政事総裁職に任命させた。
慶喜と春嶽は、京都守護職の設置、参勤交代の緩和など幕政改革を実施(文久に改革)。
文久3年(1863年)には、攘夷の実行について協議するため、将軍・徳川家茂の上洛前に慶喜が先に上洛し、将軍の名代として朝廷と交渉した。
このとき慶喜は、攘夷実行など国政の全てを従来通り幕府に任せるか、政権を朝廷に返上するかを朝廷に選ばせる。
しかし、朝廷は幕府への委任を認める一方で「朝廷が諸藩に直接命令を下すこともある」と表明し、幕府に対しては攘夷の実行を要求するなど、交渉は失敗に終わった。
この朝廷の要求に、政事総裁職の春獄は辞表を提出、慶喜は逆に受け入れる姿勢をみせて幕臣たちの猛反発を招く。
攘夷実行は慶喜の本心ではなく、家茂には孝明天皇から将軍へ直々に攘夷実行を命じれば断れなくなるため、仮病を使って会わせようとしなかった。
その後、慶喜は江戸に戻って攘夷拒否を主張する幕臣たちを押し切り、攘夷実行対策として横浜の封鎖を決めた。
「八重の桜」での慶喜
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京都で尊皇攘夷派の長州藩が除かれると、公武合体を進めようとするによる諸侯と参預会議に参加するため慶喜は再上洛。
しかし、慶喜は横浜封鎖に反対する諸侯(島津久光・松平春嶽ら)と対立した。
慶喜は、島津久光の薩摩藩による主導を警戒していて、諸候を朝廷から排除しようと画策。
さらに慶喜は酒の席でわざと泥酔し暴言を連発、同席していた久光らを罵倒して参預会議を崩壊させた。
元治元年(1864年)、慶喜は京都で幕府から半ば独立した勢力基盤の構築を目指す。
江戸にいる盟友の政事総裁職・松平直克と連携して、朝廷の意向に沿う形で横浜封鎖を推進するが、幕府内の対立が激化して直克は失脚、横浜封鎖は不可能となった。
この年、禁門の変が起こり、慶喜は自ら指揮して長州軍と交戦。
この変以降、慶喜はこれまでの尊王攘夷派に対する態度を硬化させて、会津藩・桑名藩らと提携を強化し、天狗党の乱では自分を支持していた水戸藩の尊王攘夷派志士をバッサリ切り捨てた。
第一次長州征伐後、欧米列強はが安政五カ国条約を要求してくると、慶喜は朝廷の勅許を得るため奔走。
なんとか勅許を得ることになったが、兵庫の開港だけは京都に近いという理由から、この時は勅許を得ることができなかった。
慶応2年(1866年)の第二次長州征伐では、慶喜は長州征伐の勅命を得る。
しかし、薩長同盟を結んでいた薩摩藩は出兵を拒否したため幕府軍は連戦連敗。
そんな中、大坂で将軍・家茂が死去したため、慶喜は会津藩や朝廷の反対を押し切って休戦協定を締結する。
次期将軍には、老中の小笠原長行らが運動し、江戸の反対派を抑えて慶喜を推した。
慶喜は将軍職就任を拒み続けたが、結局は受諾することになる。
慶喜は恩を売る形で将軍に就任することで政治を有利に進め、本格的な開国路線への変更を視野に入れていた。
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