大河ドラマ西郷どん(せごどん)
月照の西郷吉之助の辞世の句
切腹を選ばなかった理由とは
大河ドラマ西郷どん(せごどん)の第17話で、月照と西郷吉之助は失意のうちに冬の錦江湾に入水自殺を試みました。
これで月照は命を落としましたが、死にきれなかった吉之助の方は、のちの明治維新の立役者になっていきます。
この記事ではこの心中の際に詠んだ月照と吉之助の辞世の句と、吉之助が武士の象徴でもある切腹を選ばなかった理由について簡単に紹介していきます。
出典:https://www.city-kirishima.jp/
月照の辞世の句
吉之助とともに錦江湾へ入水した月照に辞世の句は、
「大君のためにはなにか惜しからん 薩摩の迫門(せと)に身は沈むとも」
この辞世の意味はそのままですが、
「天皇のためでならば、薩摩の海に身が沈もうとも何も惜しくはない」
というもの。
京都の公家や尊王攘夷派志士と親しく交流し、月照がいかに「尊王」の志と持っていたかが分かる辞世の句です。
上記以外にも月照は、
「雲りなき心の月の薩摩潟 沖の波間にやがて入りぬる」
という辞世の句を同時に詠んでいます。
「月」は自分のことを錦江湾に写る月とかけ、自分の清らかな正当性を示し、月が海の中に沈んでいくように、自分も揺れ動く時代という波間に消えていくという美しい歌になっています。
西郷吉之助の辞世の句
月照と心中しようとした吉之助の句は、
「二つなき道にこの身を捨て小舟(おぶね) 波立たばとて風吹かばとて」
この辞世の句の意味は、
「自分が信じる唯一の道のためならば、波が立とうが風が吹こうが、うち捨てられた小舟と同じように、この身を捨てても構わない」
というもの。
藩主・島津斉彬によって見い出された西郷吉之助は、斉彬を心から尊敬していました。
斉彬が失意のうちに急死してしまった時は、殉死まで考えています。
しかし月照は、吉之助の頭の中には斉彬の考えが詰まっているはずだと考え、ここで死んでは斉彬の遺志を消してしまうことになると説得して殉死させませんでした。
その月照の気持ち、斉彬の遺志に応えるべく、死よりも重い忠義を貫こうとした吉之助でしたが、その後安政の大獄で幕府から執拗に追い回され、頼りの薩摩藩からも見放されて万事休す。
この辞世の句は、斉彬の遺志をやり遂げることができなかった悔しさが滲み出つつも、自分のやってきたことに悔いはないという吉之助の心情が溢れていると思います。
なぜ吉之助は切腹を選ばなかったのか?
月照と共に入水自殺を試みた吉之助ですが、後に蘇生して歴史を動かす大人物になっていきます。
吉之助は、貧しいといっても身分は「武士」。
なぜ、吉之助は「武士」として切腹を選ばなかったのでしょうか?
この理由は、のちに吉之助本人が語っています。
「非常に残念なことをした。月照は『法体』であるから刀を使わずに死んだ方が良いと思って投身自殺したのだが、いっそ死ねるなら始めから刀を使えば良かったのに女子のするようなことをして、自分だけ生き残るとは面目次第もない」
このように、吉之助は月照が『法体』=僧 であるから切腹を選ばなかったと言っていますが、その選択を悔いてもいます。
しかし、相手の心情、立場になって行動してしまう吉之助にとって、この時に刀を使わなかったのは当然のことだったのではないでしょうか。
この話を直接聞いた重野安繹という人物は、涙を流して語る吉之助の印象を「生き急いでいる」雰囲気があったと言っています。
のちに吉之助が明治維新に果たした役割を考えると、生き急いでいた吉之助に神様?仏様?が「お前はまだだ」だと言っているような気がしてなりません。