大河ドラマ西郷どん(せごどん)
日米和親条約
大河ドラマ西郷どん(せごどん)の第9話で、江戸に到着した西郷吉之助は、さっそく斉彬からお使いを頼まれます。
向かった先は、小石川の水戸藩邸。
そこで吉之助は、「烈公」と呼ばれた気性の持ち主・徳川斉昭(伊武雅刀)と面会し、会話の中で「和親条約」を結んだ幕府に対す批判を耳にします。
今回は、教科書で学んできたこの「和親条約」=「日米和親条約」について簡単に紹介します。
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日米和親条約
ペリーが来航する以前、幕府はアヘン戦争で清が敗北したこともあって、外国からの脅威に危機感を募らせていた。
このため幕府は、従来の異国船を強制退去させる政策から転換し、穏便に退去させるため、遭難した船に限り燃料等を与える「薪水給与令」を発令していた。
嘉永6年(1853年)にフィルモア大統領の命を受け、ペリー提督率いる艦隊が日本に来航。
ペリーは開国・通商を求めたが、幕府は1年間の猶予を提示し、艦隊は一時的に退去した。
翌年、再び来航したペリーに対し、幕府は1ヶ月にわたる協議の末に「日米和親条約」を締結、調印した。
日本側の実務担当者は大学頭・林復斎であり、この「日米和親条約」締結によって下田と箱館(のちの函館)が開港し、鎖国体制は終焉を迎えることとなった。
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当時のアメリカは、東アジアとの貿易のために太平洋を航海していたが、蒸気船には十分な燃料、水や食糧が積み込めず、補給のための港が必要だった。また、国交がない状態では漂着した乗組員の引渡しも不便であった。
このためアメリカは無理な交渉は行わず、主に人命保護と補給を目的とした内容で、下田と函館が選ばれたのは補給場所を重視したものであった。
日米和親条約の主な内容
・日米両国・両国民の間には、人・場所の例外なく、今後永久に和親が結ばれる。
・即時に下田港、1年後に箱館港を開港する。
・下田、箱館の港において薪水、食料、石炭、その他の物資の供給を受けることができる。物品の値段は日本人が決める。
・アメリカの船が難破した場合、乗組員は下田か箱館に移されアメリカ人に引き渡す。
・遭難者の所有物は全て返し、救助に生じた出費の弁済の必要はない。
・遭難者、その他の市民は自由であり、日本において監禁されることはないが、公正な法律に従わなければならない。
・下田、箱館に留まるアメリカ人は、行動を制限されない。行動可能範囲は、下田は7里以内、箱館は別途定める。
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その後、さらにアメリカ総領事・ハリスと交渉が行われ、条約の細則を定めた「下田条約」を締結している。
下田条約の主な内容
・アメリカ人の行動可能範囲は下田は7里、箱館は5里に限り、武家・町家に立ち入る事はできない。
・アメリカ人の休息所を了仙寺・玉泉寺に置いて、米人墓所は玉泉寺に置く。
・アメリカ人が狩猟をする事は禁止する。
ペリーは日本との交渉のために、漢文通訳・サミュエル・ウィリアムズ、オランダ語通訳・アントン・ポートマンを連れており、条約も日本語、英語に加えて漢文版、オランダ語版が作成された。
米国から帰国していたジョン・万次郎は幕府に登用されていたが、スパイ疑惑をかけられて参加できず、会話による交渉はオランダ語が中心であった。
日本にあった原本は火災により消失したが、アメリカのものは現存していて、2004年には日米交流150周年を記念して、アメリカから日本へレプリカが贈られた。
徳川斉昭は、この「日米和親条約」に対し、アメリカの脅しに屈した幕府の弱腰を批判していますが、現代の我々からしてみれば、条約の内容はとても友好的であり、何でそんなに怒ってるのか分かりません。この時点でのアメリカは、日本に補給基地としての役割を期待していただけです。
「攘夷」を頑固に掲げる斉昭にとって、軍艦で脅された形での調印ということが許せず、内容なんてどうでもよかったんでしょうか。
とんでもないクレーマーのようですけど、後に不平等条約とされる「日米修好通商条約」が結ばれ、日本がアメリカの食い物にされる危険を予見していたとすれば、斉昭はとても先見性のある人物ってことになりますね。