大河ドラマ西郷どん(せごどん)
ペリー
大河ドラマ西郷どん(せごどん)の第9話で、阿部正弘の話の中で出てくる「ペリー」さん。
徳川斉昭ら攘夷派がいる中、幕府と日米和親条約を結ばせたペリーさんは、今日でも知らない人はいないであろう日本史上の重要人物。
でも、ペリーさんって黒船に乗ってやってきたってことぐらいしか、知らない人がほとんどだと思います。
今回は、もう少しだけペリーさんについて掘り下げてみようと思います。
アメリカの考え方が分かる日米和親条約の内容はこちら↓
ペリー
マシュー・カルブレイス・ペリーは、クリストファー・レイモンド・ペリーと妻・セーラの三男として生まれる。
長兄はクリストファー・レイモンド・ペリー、次兄はアメリカ海軍の英雄であるオリバー・ハザード・ペリー。
1809年、わずか14歳9か月で海軍に入隊、1812年から米英戦争に2人の兄とともに参加する。
1833年に造船所長となり、1837年に海軍大佐に昇進。米墨戦争後には司令官に昇進した。
ペリーは、蒸気船を主力とする海軍の強化策を進めて士官の教育にあたり、蒸気船海軍の父とたたえられた。
1852年に東インド艦隊司令長官に就任したペリーは、日本に開国を依頼する大統領の親書を渡すよう指令を受ける。
この任務が与えられる1年前に、ペリーは日本遠征計画を提出していた。
その計画の中で、ペリーは4隻の軍艦をもって日本人に「友好」よりも「恐怖」を与え、軍事力を認識させると書いている。
出典:http://tiheisennnokanatahe.blog.so-net.ne.jp/
かくして、ペリーはフィルモア大統領の親書を持ち、ミシシッピ号を旗艦として4隻の艦隊で出港した。
ケープタウン・セイロン・マカオ・香港・琉球を経由し、1853年に浦賀に入港。
突如、浦賀沖に姿を現した4隻の軍艦に、日本人は驚き「黒船」と呼んだ。
そしてペリーは護衛を引き連れて上陸し、幕府に大統領の親書を手渡した。
この時、アメリカは日本の開国を要求したのみで具体的な協議はなかった。
これに対し、幕府は1年間の猶予を申し出て、ペリーは一旦引上げる。
しかし、極東事情が変化する中で、しびれを切らしたアメリカは、1854年に7隻の軍艦を率いて日本へ再来航。
ペリーは、早期の条約締結を求め、幕府も日米和親条約を調印に応じた。
条約を締結後は、開港されることになった箱館(函館)港に来航し調査を行い、帰りに那覇に寄港して琉球王国と琉米修好条約を締結した。
帰国後のペリーは遠征記などを記している。
アルコール使用障害、痛風、リウマチなどを患っていたペリーは、1858年にニューヨークで死去した。享年63歳。
乗組員たちの話では、かなり高圧的な人物であったと伝わっている。
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