大河ドラマ西郷どん(せごどん)
阿部正外(あべまさとう)
大河ドラマ西郷どん(せごどん)の第30話で、天皇の寵愛を受けて権力を強める一橋慶喜は、幕府によって天皇から遠ざけられようとしていました。
幕府本体にとっては、江戸と距離を置き独立した政権のような形を取った一橋慶喜が危険視されていたのです。
この時、一橋慶喜を江戸に引き戻そうと京都に派遣された幕府老中が「阿部正外」と「松平宗秀(本庄宗秀)」でした。
今回は、この「阿部正外(あべまさとう)」について簡単に紹介していきます。
阿部正外(あべまさとう)
安政の大獄から幕府の中枢へ
阿部正外は、3000石の旗本・阿部正蔵の次男として文政11年(1828)に生まれました。
長兄の正定が嘉永元年(1848)に阿部本家の白河藩を相続したため、正外は父の跡を継いで旗本となります。
その後、正外は大老・井伊直弼から重用され、安政6年(1859)に上京して京都所司代・酒井忠義と共に「和宮の江戸下向」に係る朝廷工作を進めました。
井伊直弼が暗殺された後も、正外は朝廷との打ち合わせを継続し、和宮降嫁の目途をつけたあとに転任。
神奈川奉行となって薩摩藩の起こした「生麦事件」への対応措置に奔走しました。
外交手腕に優れた正外は、外国奉行や北町奉行を歴任し、元治元年(1864)に幕命によって白河藩を相続して10万石の大名となります。
さらに正外は老中にも任じられ、横浜港鎖港問題では外国交渉を担当するなど幕政に深く関与していくようになります。
その一方で、白河藩では洋式訓練を導入するなど軍制改革に取り組みました。
一橋慶喜との対立
慶応元年(1865)、朝廷から14代将軍・徳川家茂の上洛と攘夷決行が要請されたため、正外は松平宗秀と共に兵4千を率いて上洛します。
正外たちは武力を背景に朝廷を牽制し、京都で幕府から独立した政権を築いていた一橋慶喜を連れ戻そうとしていましたが、これが逆に朝廷の反感を買ってしまい、朝廷に将軍上洛を強く要請されてしまいました。
江戸に戻った正外は、朝廷の意志に従ってやむなく将軍上洛を計画し、上洛反対派の老中を失脚させました。
正外は将軍・家茂上洛の折に随行し、第二次長州征討に備え、鍛え抜かれた白河藩兵1,200人を大坂城に集結させました。
また、正外は兵庫において、英仏蘭3カ国と兵庫開港・大坂開市をめぐって交渉を行いました。
この交渉は難航し、しまいに英仏蘭3ヶ国には「時間の無駄。天皇と直接交渉する」と主張されてしまいます。
幕府を無視した交渉は権威の失墜を招くと考えた正外は、将軍・家茂らと協議の上で無勅許で開港を決定しますが、一橋慶喜からは猛反対されました。
このとき、正外ら幕閣と慶喜は激論を交わし、将軍・家茂は凍り付く場に耐えきれず、泣きだしてしまったといいます。
結局、交渉延期を主張した慶喜の意見が採用され、正外たちは敗北。
朝廷は正外を許さず、官位を剥奪した上、改易の勅命まで下してしまいました。
迎えた明治維新
正外は朝廷によって改易されそうになりましたが、意外にも一橋慶喜に救われます。
慶喜のとりなしにより、正外は老中を免職、官位を召し上げられたものの、何とか謹慎処分で済むことなりました。
このとき、将軍・家茂は朝廷の幕政干渉に異議を唱え、天皇や慶喜に将軍辞意を伝えたといわれ、驚いた天皇は「もう幕政干渉はしない」と言ったといわれています。
その後、政治生命を絶たれた正外は、白河で謹慎して慶応2年(1866)には隠居。白河藩は長男・正静に引き継がれました。
同年に阿部家は陸奥棚倉藩への転封が申し渡されますが、工作を行って慶応3年(1867)まで引き延ばします。
そして明治元年(1868)、幕府から再度、白河藩への転封が言い渡されました。
しかし、この頃には時代は大きく動いており、正外たちが白河に戻る前に戊辰戦争が起こります。
正外たち棚倉藩は旧幕府側として明治新政府と戦いましたが、城を奪取されて逃亡。
降伏後に正静と共に東京で強制隠居処分となり、明治20年(1887)に死去しました。享年59。