大河ドラマ西郷どん(せごどん)
松平忠固(ただかた)
大河ドラマ西郷どん(せごどん)で、一橋慶喜を次期将軍に推す「一橋派」を形成する島津斉彬、徳川斉昭、松平慶永、徳川慶勝らに対し、徳川慶福を推す「南紀派」を形成する井伊直弼、松平忠固、水野忠央。
この「南紀派」に属する人物は、井伊直弼以外はマイナーなイメージですが、今回紹介する松平忠固はなかなか面白い人物です。
というのもこの人、井伊直弼にべったりというわけではなく、逆に井伊直弼を利用して権力を握ろうとしているところがある。
この記事では「南紀派」に属し、条約調印の勅許を巡って井伊直弼と対立した積極的な開国派・松平忠固について簡単に紹介します。
松平忠固(ただかた)
松平忠固は、文化9年(1812年)、播磨姫路藩主・酒井忠実の次男として江戸で誕生した。
文政12年(1829年)に上田藩主・松平忠学の養子となり、のちに家督を継ぎ寺社奉行、大坂城代をのちに歴任して老中に抜擢される。
嘉永6年(1853年)のペリー来航による開国問題に、老中首座・阿部正弘は各方面から意見を求め、前水戸藩主・徳川斉昭を海防参与に任じたが、松平忠固は猛烈に反対。
松平忠固は幕府が諸大名に意見を求めることが、権威失墜につながることを危惧していた。
また徳川斉昭の攘夷論では、アメリカと戦争になった場合に勝利する可能性は無く、それならば早めに開国すべきであると考えていた。
積極的な開国論を唱える松平忠固は幕府老中たちを主導し、徳川斉昭との対立は激化。
阿部正弘は事態の収拾を図るため徳川斉昭に歩み寄り、安政2年(1855年)に松平忠固らは老中を免職させられた。
免職処分を課したことによって阿部正弘は孤立したため、開国派の巨頭・堀田正睦を老中に任命して状況を好転させようと図る。
さらに阿部正弘は堀田正睦に老中首座の地位を譲り、徳川斉昭らの矛先をかわし実権を確保した。
しかし安政4年(1857年)に阿部正弘が死去したため、堀田正睦は開国派の松平忠固を復帰させた。
老中に再任された松平忠固は、日米修好通商条約締結には勅許不要論を主張し、再び徳川斉昭らと対立。
また、将軍継嗣問題で一橋慶喜を推す一橋派に対し、松平忠固は紀州藩主・徳川慶福を推して井伊直弼らと南紀派を形成する。
その後、松平忠固は一橋派に寝返った堀田正睦を見限り、井伊直弼を大老にする工作を行った。
このころ、松平忠固は井伊直弼を大老にしても自分のやりたいように幕政を動かせると考えていた。
現に井伊直弼は勅許を得た上での条約調印を考えていたが、松平忠固はイギリスの艦隊が日本に襲来する前にアメリカと早急に条約を結ぶべきであると勅許無しでの条約調印を強く主張して、幕府内の意見をまとめた。
こうして大老・井伊直弼は完全に孤立し、安政5年(1858年)に条約は調印に至る。
すると調印の翌日、井伊直弼は対立していた一橋派の松平慶永のもとを訪れて松平忠固に対する愚痴をこぼし、松平忠固と堀田正睦を失脚させる事への協力を依頼した。
そして調印から4日後、松平忠固は堀田正睦と共に老中を免職、蟄居を命じられた。
その後、松平忠固は安政の大獄で捕らえられた吉田松陰を助けようと尽力しているが、安政6年(1859年)に急死。享年48歳。
開国と積極的な交易を推進していた松平忠固の遺志に従い、息子の忠礼、忠厚は明治維新後に米国に留学。
特に忠厚は、米国の土木工学者としてブルックリン橋の建設に携わり、全米で有名になっている。
松平忠厚