大河ドラマ西郷どん(せごどん)
本寿院と歌橋
大河ドラマ西郷どん(せごどん)の第12話で、13代将軍・徳川家定に篤姫を嫁がせて幕政に関与しようと画策する島津斉彬は、篤姫の教育係である幾島を使って家定の母・本寿院を口説き落とし、篤姫の輿入れを成功させます。
篤姫を迎え入れたものの本寿院は次期将軍後継者に関して、大奥から嫌われる徳川斉昭の子・一橋慶喜を擁立することには反対。
これに対して篤姫は夫となった家定を言い聞かせて、何とか一橋慶喜を次期将軍にすることを決定させました。
しかし、喜びもつかの間、家定が病床に臥せると大老になった井伊直弼が、徳川慶福を次期将軍にすることを発表。
驚いた篤姫が必死に抗議するものの、家定のお見舞いに現れた徳川慶福を気に入った本寿院と乳母・歌橋は、一向にお見舞いに来ない一橋慶喜に嫌悪感を露わにして完全に形勢逆転。
こうして「南紀派」の勝利が確実となりました。
この記事では、将軍後継者問題でも絶大な権力を誇っていた家定の実母・本寿院と乳母・歌橋について簡単に紹介しています。
本寿院役 泉ピン子
本寿院
本寿院は、幕臣の跡部正賢の娘として文化4年(1807年)に生まれた。実名は美津、堅子。
美津は文政5年(1822年)に西ノ丸大奥に出仕し、将軍後継者の徳川家慶のお手つきとなり、文政7年(1824年)に後の13代将軍・家定を産む。
また、美津は家定の他にも2人の男児を出産したが、いずれも早世している。
美津は子育てのことは乳母であった歌橋に任せていたため、大奥では「お部屋さま」と影ながら言われた。
※お部屋様・・側室のこと
徳川家慶が12代将軍になると美津たちも本丸大奥に入り、同時に家定が将軍後継者と定められた。
その後、嘉永6年(1853年)に家慶が死去すると美津は本寿院と号し、13代将軍・徳川家定の生母として本丸大奥に居を構えた。
もとより家定は病弱であったため、将軍就任当初から次期将軍問題が持ち上がり、外交問題と絡み合って幕府内は「南紀派」と「一橋派」の抗争に発展。
そんな中、家定が死去すると14代将軍には本寿院や大奥が支持した紀州藩主・徳川慶福(家茂)が迎えられた。
その後も本寿院は慶応4年(1868年)の江戸城無血開城まで大奥に留まった。
城を出た本寿院は、天璋院(篤姫)と共に一橋邸に移り住み、平穏な余生を送り明治18年(1885年)に死去した。享年79歳。
歌橋
歌橋は13代将軍・徳川家定の乳母。
家定の生母・本寿院や徳川家慶が、育児を全て歌橋に任せていたため、家定にとっては歌橋が母親代わりだった。
また家定は人前に出ることを極端に嫌う性格で、歌橋にしか心を開かなかったという。
徳川家定が嘉永6年(1853年)に13代将軍になると、歌橋は西ノ丸大奥から本丸大奥に移り住んだ。
歌橋は大奥で本寿院以上の権勢を握って大奥を牛耳り、将軍後継者争いでは「南紀派」に属して、本寿院らと共に紀伊藩主・徳川慶福(家茂)を推した。
家定の死去後は法好院と号した。