大河ドラマ西郷どん(せごどん)
辞官納地
大河ドラマ西郷どん(せごどん)で「大政奉還」と行った徳川慶喜に対し、西郷吉之助たち討幕派はおとなしくなると思いきや、岩倉具視や大久保一蔵はあくまで武力討幕の道を模索。
朝廷内でクーデターを起こして、慶喜を追い詰めるため「辞官納地」を求めます。
この「辞官納地」は直接、新政府軍と旧幕府軍との武力衝突に結びつくことはありませんでしたが、この記事では討幕派が行ったあからさまな慶喜への挑発行為「辞官納地」について簡単に紹介していきます。
手段は選びません!
辞官納地
「辞官」とは官位を返上すること、「納地」とは領地を返上すること。
慶応3年(1867)10月14日、江戸幕府将軍・徳川慶喜は「大政奉還」によって政権を朝廷に返し、その後、征夷大将軍の辞職を願い出ました。
この同日に薩長ら武力討幕派に対し「討幕の密勅」も出されていましたが、慶喜の「大政奉還」によってその大義名分は失われてしまいます。
一方、朝廷は政権を返されたものの、諸外国に対する外交など政権をすぐに運営していく能力がありません。
さらに、この頃の朝廷には親慶喜派の公卿が首脳部に食い込んでいて、結局は260年間政権を運営してきた幕府(慶喜)に引き続き頼らざるを得ない状況となります。
これこそ「大政奉還」を行った慶喜の目論見どおりで、今後も徳川家が新しい政権内でも中心になっていくという見事な筋書きでした。
どうよ?俺の賢さは
しかし、討幕派はこれでは全く意味が無いので徳川家を丸裸にする計画を立ててクーデターを起こし、朝廷から親慶喜派を一掃。
「王政復古の大号令」を発して新政府の樹立を宣言し、「小御所会議」を開催しました。
ここで討幕派は、徳川家の官位と領地の引き剥がしに掛かり「辞官納地」を決定します。
慶喜は征夷大将軍の職は辞していたものの、左大臣・右大臣に次ぐ官職「内大臣」の位を持っていました。
これは初代将軍・徳川家康も叙任され、以後も徳川家光等の歴代将軍が任命されている官位です。
また、全国の大名と比較しても徳川家はズバ抜けて大きい領地を保持していました。
2位の加賀・前田家の100万石に対し、徳川家はその8倍の800万石です。
こりゃ、やべーぞ
討幕派は、慶喜が素直に「辞官納地」に応じれば、徳川家を丸裸にできるのでそれでよし。
もし、反発するようならば逆賊としてこれに攻撃を加える。
当然、膨大な家臣団を養っている徳川家は簡単に応じれるはずもないため、 あからさまな討幕派の挑発行為でした。
しかし、この「辞官納地」は慶喜の時間稼ぎの間に、山内容堂や松平春嶽ら親慶喜派が巻き返し、最終的にはウヤムヤにされてしまいました。
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