大河ドラマ西郷どん(せごどん)
二条斉敬(にじょうなりゆき)
大河ドラマ西郷どん(せごどん)の第30話では、笑福亭鶴瓶が演じる岩倉具視が本格的に登場し、「倒幕」と目論む西郷吉之助らは朝廷から追放されていたこの岩倉具視に接近して協力を得ようとします。
しかし、岩倉具視は一見何を考えているか分からないクセのある人物で、バクチで負けた吉之助は言われるがままに「庭方役」を命じられてしまいます。
そんな中、吉之助は掃除していた折に岩倉具視の手紙を読んで大興奮します。
手紙には「幕府と朝廷を引き離す必要がある。それが無理なら『倒幕』やむなし」と書かれており、『薩長同盟』についても言及されていました。
今回は、この西郷吉之助が発見した手紙の宛先である「二条斉敬」の生涯について簡単に紹介します。
二条斉敬(にじょうなりゆき)
幕府と関わり深い血筋
二条斉敬は、文化13年(1816)に公卿・二条斉信と徳川従子との間に生まれました。
ちなみに母である徳川従子は水戸藩主・徳川斉昭の姉であり、斉敬は徳川慶喜と従兄弟ということになります。
文政7年(1824)に元服し、11代将軍・徳川家斉の偏諱を受けて「斉敬」と名乗り、その後順調に権大納言にまで昇進していきました。
朝廷で大きな影響力を持った斉敬は、ペリー来航後の揺れ動く政局の中、叔父である徳川斉昭の影響を受けて日米修好通商条約締結の勅許に反対し、朝政を導いていきます。
安政5年(1858)に徳川慶福が14代将軍に決定すると、斉敬は使者として江戸に向かい、大老・井伊直弼との面会を望みました。
このとき、井伊直弼は勅許に反対した斉敬と会おうとしませんでした。
そして、こののちに始まる「安政の大獄」で、斉敬は処罰の対象とされてしまいます。
しかし、大きな影響力と持つ斉敬の処分は軽いもので済み、その後は右大臣まで昇進して朝廷を主導する立場になっていきました。
最高権力からの失脚
桜田門外の変後、斉敬は幕府との協調を重視する公武合体派の重鎮として尊王攘夷派の公卿、長州藩と対立。
文久3年(1863年)、斉敬は近衛忠煕や朝彦親王と協力し、薩摩藩と会津藩を動かして八月十八日の政変を成功させ、尊攘過激派の公卿と長州藩を京都から追放しました。
これで孝明天皇から絶大な信頼を勝ち得た斉敬は、左大臣に昇進して関白となり、名実ともに朝廷の最高権力者になっていきます。
その後、天皇を補佐した斉敬は親幕派公卿として徳川慶喜の将軍就任などで活躍。
慶応2年(1866)には朝政改革を訴える公卿たちによって罷免を要求されましたが、孝明天皇の斉敬に対する信頼は揺らぐことはなく、引き続き朝政を任されました。
しかし、同年末に孝明天皇が崩御すると、斉敬の立場が一変します。
当初、明治天皇のもとで摂政を任されていましたが、朝廷内での風当たりは強く、ついには「王政復古の大号令」によって摂政、関白は廃止となり、斉敬は官位を剥奪されて失脚。
その後、斉敬は政治に関わることが許されず、藤原一族の長の象徴「氏長者」を九条道孝に譲って、明治11年(1878)に死去しました。享年63。