大河ドラマ西郷どん(せごどん)
九条道孝と山科言縄
大河ドラマ西郷どん(せごどん)の第30話では、笑福亭鶴瓶が演じる岩倉具視が本格的に登場し、「倒幕」と目論む西郷吉之助らは朝廷から追放されていたこの岩倉具視に接近して協力を得ようとします。
しかし、岩倉具視は見た目通りのクセのある人物で、賭博で負けてしまった吉之助は言われるがままに「庭方役」を命じられてしまいます。
そんな中、吉之助は掃除していた折に岩倉具視の手紙を読んで大興奮。
手紙には「幕府と朝廷を引き離す必要がある。それが無理なら『倒幕』やむなし」と書かれており、『薩長同盟』についても言及されていました。
今回は、この西郷吉之助が発見した手紙の宛先である「九条道孝と山科言縄」について簡単に紹介します。
九条道孝
九条道孝は、天保10年(1839)に九条尚忠の長男として生まれました。
父・尚忠は養嗣子に九条幸経を迎えていましたが、その幸経が安政6年(1859)に死去したため、道孝がその養嗣子となって跡を継ぐことになります。
幕府との協調路線を推進していた父と同様に、道孝は公武合体派の公卿として活躍し、慶応3年(1867)には左大臣にまで昇進していきました。
しかし、大政奉還後に王政復古の大号令が出されると、道孝は追及されて参内停止処分となってしまいます。
明治元年(1868)に許され、処分を解かれた道孝は、二条斉敬から藤氏長者を譲られて新政府に協力。
孝明天皇からの信頼厚く、失脚後は政治生命を断たれた二条斉敬とは違い、道孝はその後も新政府軍の中でも重要なポストに就いていきます。
戊辰戦争では新政府軍の奥羽鎮撫総督に就任して東北地方を転戦し、明治天皇の相談役としても重責を担った道孝は、東京海上保険会社(現:東京海上日動火災保険)の創設に関わるなど活躍。
明治39年(1906)に68歳で死去しました。
ちなみに四女の節子が大正天皇の皇后となったため、道孝は昭和天皇の祖父にあたり、今上天皇の曽祖父ということになります。
山科言縄(やましなときなお)
山科言縄は、天保6年(1835)に公卿・山科言成の子として生まれました。名は「ときつな」とも読まれます。
山科家は代々、装束などを担う家柄で、官職も世襲の内蔵頭を任じられていました。
維新後、言縄は宮中儀式や天皇即位の装束などを監修し、大正5年(1916)に死去しました。