大河ドラマ西郷どん(せごどん)
薩土密約
大河ドラマ西郷どん(せごどん)では、西郷吉之助は島津斉彬の遺志を引き継ぎ、日本国内での内乱を避けるべく尽力しています。
平和的な倒幕が大河ドラマの中での西郷吉之助の理想と思われますが、史実の西郷吉之助(隆盛)は武力討幕を果たすため手段を選ばない、やるときはやる男です。
そんな西郷吉之助が、幕末も終焉に近づく頃に武力討幕を主張する土佐藩士・乾退助と締結したのが「薩土密約」という軍事同盟。
この記事では大河ドラマ西郷どんの裏側、西郷吉之助が乾退助と結んだこの「薩土密約」について簡単に紹介します。
幕府を潰す!
薩土密約
「薩土密約」は、慶応3年5月21日(1867年6月23日)に締結された薩摩藩と土佐藩の実力者の間で交わされた、武力討幕のための軍事同盟。
『実力者の間』が示すように、薩土密約は藩同士による公式な同盟ではない点と、『武力討幕』という内容において、のちに締結される「薩土盟約」と大きく違うものである。
武力討幕派であった土佐藩の乾退助(板垣退助)は、脱藩していた中岡慎太郎の仲介で薩摩藩士・小松帯刀邸にて、薩摩藩の西郷吉之助(隆盛)・小松帯刀らと会談し、乾退助は「戦となれば必ず土佐藩兵を率いて薩摩藩に合流する」と約束し、この「薩土密約」を結んだ。
しかし、密約による武力討幕は、徳川家に温情があった土佐藩前藩主・山内容堂の意向に沿うものでは無かったため、当初は私的な密約として処理された。
「薩土密約」締結後、乾退助は土佐藩前藩主・山内容堂に建白し、大坂で銃300挺を購入して土佐に帰国したが、入れ違いに平和的解決を目指す後藤象二郎と坂本龍馬が上洛し、大政奉還を意図とした「薩土盟約」を薩摩藩と結んでしまう。
それでも乾退助は土佐で武力討幕の筆頭として軍制改革を推し進めていくが、過激な行動を嫌った上士(上級武士)からは疎んぜられ、ついには謹慎処分を受けることとなった。
その後、徳川慶喜は大政奉還で平和的に政権譲渡が行ったが、あくまで武力討幕を目指す薩摩藩を中心とした新政府は、旧幕府軍と鳥羽・伏見の戦いで激突。
この時、土佐藩兵は山内容堂の制止を無視し、乾退助が結んだ「薩土密約」に基づいて独断で戦闘に参加した。
さらに、慶応4年(1868年)1月7日、徳川慶喜が「朝敵」とされると、乾退助は謹慎を解かれ大司令となって土佐を出陣。
京都に到着した乾退助の率いる迅衝隊は、戦闘に参加していた土佐藩士と合流し、隊を再編成して戊辰戦争で戦果を挙げていった。
坂本龍馬、後藤象二郎らが結んだ「薩土盟約」は、徳川慶喜に大政奉還を成し遂げさせたものの、2ヶ月半で破断となってしまった一方で、「薩土密約」は私的な密約ではあったにもかかわらず、藩命よりも遵守される重要な同盟となり、新政府から鳥羽・伏見の戦いでの参戦が高く評価された。
なんとなく平和なイメージ
板垣退助だが・・・