大河ドラマ西郷どん(せごどん)
大久保利通①
大河ドラマ西郷どんで、西郷隆盛の親友にして最大のライバルともいうべき、瑛太が演じる大久保正助(のちの大久保利通)。
のちに、西郷隆盛、木戸孝允と並んで「維新の三傑」と称され、初代内務卿(実質上の首相)を務めるなど、明治新政府のリーダーになる大久保正助ですが、大河ドラマの序盤では、西郷の3番目の妻となる糸にはアッサリとフラれ、「お由羅騒動」では謹慎処分になるなど冴えない印象。
しかし島津斉彬の死後、西郷を嫌う島津久光に接近し、大久保正助は歴史の表舞台で活躍していきます。
今回は、大久保利通が出世していくまでの半生、大久保正助と名乗っていた時代を簡単に紹介していきます。
大久保正助(利通)
大久保正助は、文政13年(1830年)、薩摩国下高麗町に、薩摩藩士・大久保次右衛門(利世)と福の長男として誕生した。
西郷隆盛より2歳年下。大久保家も西郷家と同じく下級藩士であった。
琉球に赴任していた父は、正助に郷中教育を受けさせるため、亡き兄の妻のいる下加治屋町に預け、西郷吉之助(隆盛)や有村俊斎(海江田信義)らと学友になる。
当時から正助は、郷中のなかで飛びぬけて頭が良かったといわれる。
弘化3年(1846年)に記録所書役助として藩に出仕したが、嘉永3年(1850年)に起こった「お由羅騒動」で父・次右衛門に連座して失職、謹慎処分となった。
父は島流し、正助は謹慎となったために大久保家は困窮し、母・福が内職などで家計を助けた。
島津斉彬が藩主となると謹慎が解かれて、嘉永6年(1853年)に記録所に復職。
その後、西郷を中心とする精忠組のメンバーとして活動し、斉彬の死後に新藩主・島津茂久の実父・久光に接近する。
碁が好きだった久光に接近するために、正助は碁を学んだといわれる。
正助は大の負けず嫌いで、碁で負けたときは機嫌が悪くなったらしく、のちに大隈重信は 「岩倉具視は大久保利通が熱しやすい気性を知っていたので、対局中は常に大久保を怒らせて勝っていた」と言っている。
万延元年(1860年)に久光と面会し、勘定方小頭格となり、のちに御小納戸役に抜擢され藩政に参加するようになった。
文久元年1(1862年)頃、久光から「一蔵」の名を賜って通称を改めた。