大河ドラマ西郷どん(せごどん)
調書広郷(ずしょひろさと)
大河ドラマ西郷どんの序盤、藩主の座からなかなか降りようとしない島津斉興の懐刀的な活躍を見せるのが、竜雷太が演じる調書広郷(ずしょひろさと)。
どこか悪役のような雰囲気を漂わせていますが、作中で斉興が言うとおり、調書広郷は薩摩藩の財政を立て直した救世主のような存在。
しかし、その手腕は西郷吉之助(隆盛)たち下級武士には厳しすぎたようで史実においても人気がない。
明治維新は薩摩藩の軍事力が無ければ成しえなかったが、借金に苦しんでいた薩摩藩が他藩と異なり、大量の軍備を持てたのは財政再建を果たした調書広郷の活躍があったからこそ。
大河ドラマでは調書広郷の活躍の場面はありませんが、本来はもっと評価されるべき人物・調書広郷について今回簡単に紹介したいと思います。
調所広郷(ずしょひろさと)
調書広郷は、江戸時代後期の薩摩藩の家老。通称は笑左衛門。
安永5年(1776年)に、城下士・川崎主右衛門基明の子として誕生し、調所清悦の養子となった。
調書広郷は茶道職として仕えていた際、江戸で隠居していた前藩主・島津重豪に見出されて登用された。
後に藩主・島津斉興に仕え、使番・町奉行などを歴任、藩が琉球や清と行っていた密貿易にも携わる。
天保9年(1838年)には家老に出世し、藩の財政・農政・軍制改革に取り組んだ。
当時の薩摩藩は、島津重豪が作った500万両の借金だけでなく、年間利息80万両を超えて財政は破綻寸前、これに調書広郷は行政改革、農政改革を始め、商人を脅迫して借金を無利子での分割払い、琉球を通じて清と密貿易などあらゆる手段を講じて再建を図った。
なお、借金を踏み倒した商人には、交換条件として密貿易品を優先的に扱わせて利益を上げさせている。
この調書広郷の活躍により、天保11年(1840年)には50万両の蓄財ができるほどまで薩摩藩の財政は回復した。
50万両の蓄財は、幕府等を意識した表向きの公表数字であり、実際にはも250万両はあったといわれている。
薩摩藩の財政を回復させた調書広郷は、藩主・斉興の後継を巡り側室の子・久光を支持した。
嫡男の斉彬を支持しなかったのは、かつて薩摩藩の財政を悪化させた島津重豪に似た斉彬の「蘭癖」が再び財政が悪化すると考えたからである。
一方、調書広郷は財政再建のため、百姓から税を厳しく取り立てており、西郷ら下級武士には極悪人という評価があった。
下級武士らから支持された斉彬は、父の隠居と調書広郷の失脚を図り、幕府老中・阿部正弘らと協力して、薩摩藩の密貿易に関する情報を幕府に流した。
そして嘉永元年(1848年)、調所広郷は江戸に出仕した際、阿部正弘に密貿易の件を糾弾され、責任追及が斉興にまで及ぶ前に薩摩藩邸で服毒自殺。享年73歳。
調書広郷の死後、藩主・斉興は斉彬を激しく憎み、斉彬擁立派を粛清する「お由羅騒動」が起こった。
「お由羅騒動」が沈静化した後、調書家は藩主に就任した斉彬によって家禄と屋敷を召し上げられ、さらに明治維新の立て役者となった西郷隆盛や大久保利通から調所家は徹底的な迫害を受け、一家は離散した。