大河ドラマ西郷どん(せごどん)
徳川家茂(徳川慶福)
大河ドラマ西郷どんで、一橋派に勝利した井伊直弼に擁立されて、徳川家定のあとの14代将軍になる徳川家茂(徳川慶福)。
篤姫は就任したばかりの少年将軍・徳川家茂(徳川慶福)に、自分を母と思って頼って欲しいと微笑みかけますが、当の徳川家茂(徳川慶福)には信用してもらえません。
これは井伊直弼から何か吹き込まれていたためと思われますが、篤姫も負けずに「母」として江戸城に留まり、命を懸けて徳川家茂(徳川慶福)を守る決意を固めます。
史実の篤姫は、実は一橋慶喜よりも徳川家茂(徳川慶福)の人柄を気に入っていたようで、今回は「名君」としての逸話も混ぜながら徳川家茂(徳川慶福)を簡単に紹介したいと思います。
徳川家茂(いえもち)
徳川家茂は、弘化3年(1846年)に紀州藩第11代藩主・徳川斉順の次男として江戸で生まれた。
父は生まれる前に薨去しており、藩主を務めていた叔父の第12代藩主・徳川斉彊も嘉永2年(1849年)に死去したため、4歳で家督を継いだ。
将軍・徳川家慶より1字を賜い慶福(よしとみ)を名乗ったが、幼少のため隠居していた元藩主・徳川治宝が補佐していた。
治宝が死去すると、紀州藩は家老の水野忠央が実権を握って藩政改革派が弾圧された。
家茂は生まれてから一度も江戸を出たことがない名ばかりの紀州藩主であった。
第13代将軍・徳川家定の後継者問題では、家茂は将軍家に最も近い血筋であることを根拠に、大老・井伊直弼ら南紀派の担がれ、安政5年(1858年)に13歳で第14代将軍となり名を家茂と改めた。
しかし「将軍後見職」として一橋慶喜がいたため、将軍としての権力は抑えられていた。
将軍になった家茂は、文武両道を修めるように努め、ささやかな楽しみすら捨て、良い将軍であろうと心がけていた姿は幕臣達を感激させたという。
このころの家茂には、以下のような逸話がある。
ある日、習字の先生であった老臣・戸川安清は、家茂に書を教えていた最中に水をかけられた。
そして家茂は、戸川のずぶ濡れの姿を見て笑い「あとは明日にしよう」と言って立ち去ってしまう。
同席していた側近達が、家茂のヒドイ行いに嘆いていると、戸川一人が泣いている。
側近たちが理由を尋ねると、戸川は老齢のために書を教えている最中に、失禁してしまった事を告げた。
当時は将軍の前で粗相をすれば、厳罰は当たり前の時代。
それを察した家茂は、わざと水をかけて戸川の失禁を隠し、「明日」も教えに来いと暗に言ったのである。
戸川が泣いていたのは、家茂の優しさ、細やかな配慮に感激したからであった。
家茂は、文久2年(1862年)に和宮と結婚。
和宮とは政略結婚ではあったが、2人の関係は良好であったといわれる。
文久3年(1863年)には3,000人を率いて上洛し、孝明天皇に攘夷を約束した。
家茂は、天皇や一橋慶喜らと共に賀茂神社に参拝しているが、その後の石清水八幡宮へ参詣を欠席。
源氏にゆかりのある神社で、直接天皇から攘夷の命を下されたくなかったからだといわれている。
名代として一橋慶喜が呼び出されたが、慶喜も体調不良としてその場から逃げた。
この一件から尊皇派諸士は家茂に反発し、将軍殺害予告の落首が掲げられたほか、慶喜も道中で襲撃されている。
その後、朝廷は家茂の江戸帰還をなかなか認めなかった。
そこで老中格の小笠原長行は、軍艦と軍勢1400を率いて大阪に向かい、朝廷を威圧して家茂は帰国を許された。
慶応元年(1865年)、兵庫開港を決定した老中・阿部正外らが朝廷によって処罰されると、家茂は将軍職の辞意を朝廷に提出。
天皇は慌てて辞意を取り下げさせ、その後の幕府人事へ干渉をしないと約束する。
慶応2年(1866年)、第2次長州征伐のため再び上洛した家茂は、大坂城で病に倒れた。
これを聞いて天皇は、すぐさま医師を派遣し、江戸からも天璋院や和宮によって医師が派遣されたが、治療の甲斐なく家茂は死去した。享年21歳。
家茂から信頼されていた幕臣・勝海舟は「長生きしていてれば英雄になれた人」と賞賛し、晩年は家茂の名を聞いただけで目に涙を浮かべたという。