大河ドラマ西郷どん(せごどん)
江戸無血開城
大河ドラマ西郷どん(せごどん)で、西郷吉之助率いる新政府軍は徳川慶喜がいる江戸に進撃し、討幕の総仕上げとして江戸城総攻撃を計画します。
そんな折、吉之助のもとには旧幕臣の山岡鉄舟が現れ、江戸城の明け渡しや慶喜の処分についての嘆願をしてきます。
また、かつて将軍への輿入れの際、親交のあった天璋院(篤姫)からも総攻撃中止の嘆願書が届き、吉之助の心は大いに揺れました。
その後、勝海舟との面談を行なった吉之助は、慶喜助命などの緩やかな裁定を下し、江戸城総攻撃は中止。
この記事では山岡鉄舟、勝海舟、天璋院たちが奔走し、江戸の町を戦火から救うことになった「江戸無血開城」への流れについて簡単に紹介しています。
西郷・・・・
江戸無血開城
慶喜の謹慎
明治元年/慶応4年1月3日~6日(1868年1月27日~30日)に起こった鳥羽伏見の戦いは、徳川慶喜は軍を捨てて大坂城を脱出し、軍艦「開陽丸」で江戸へ逃走したことで終わりを迎えた。
新政府は7日には「徳川慶喜追討令」を発し、慶喜・松平容保・松平定敬などの官職を剥奪、京都藩邸を没収するなどの処分を行う。
さらに諸藩から兵を上京させ、諸外国には徳川方に武器・軍艦などの援助を行わないように要請するなど戦闘に向けての準備を着々と行っていた。
俺は・・・逃げる!
一方、江戸に戻った慶喜は江戸城で対策を練っていた。
勘定奉行兼陸軍奉行並・小栗忠順や軍艦頭・榎本武揚らは抗戦を主張し、フランス公使・ロッシュも登城して抗戦を提案してくるが、慶喜は迫りくる新政府軍に対しては恭順の道しかないと思っていた。
このため慶喜は小栗忠順を罷免して自らは隠居、恭順を主張した会計総裁・大久保一翁と陸軍総裁・勝海舟を徳川家の最高指揮官にして恭順策を実行に移していった。
そして慶喜は江戸城を徳川慶頼に委任して退出し、上野の寛永寺で謹慎生活を送ることとなった。
西郷隆盛の強硬論
新政府では東海道・東山道・北陸道から江戸を攻撃すべく、総裁の熾仁親王を東征大総督に任命し、江戸城・徳川家の件だけでなく東日本に関わる裁量のほぼ全権を与えた。
新政府の中では薩摩藩を中心として慶喜に厳しい処分を望む強硬論に対し、長州藩および山内容堂・松平春嶽などは内紛さけるため緩やかな処分をすべきという寛典論があった。
このため長州の広沢真臣は、大総督府下参謀に任命されたものの寛典論指示のために辞退し、代わって強硬派の薩摩の西郷隆盛が任命された。
その後、進軍した東征軍は江戸城総攻撃を3月15日に決定し、西郷隆盛は隊長たちに対して勝海舟及び慶喜の首を取る旨の演説を行って士気を奮い立たせた。
名演説再び?
一方、徳川家の恭順方針に不満を持った旧幕臣たちは、各地で新政府軍と交戦し始めていた。
これら旧幕臣の暴発は陸軍総裁・勝海舟が黙認し、さらに支援までも行っていた。
この時、勝海舟は東征軍には歯が立たないことを見越した上で、主戦派を江戸から遠ざけることを考えていた。
無血開城への事前交渉
大総督府首脳部との縁が深かった江戸城大奥の天璋院(篤姫)と静寛院宮(和宮)などは、徳川家存続を求め嘆願書を立て続けに出していた。
しかし、西郷隆盛は所詮は賊徒からの申し分であるとして全く相手にしなかった。
このため天璋院は、東征軍への使者として老女を遣わし説得。
なんとか西郷隆盛から嘆願を受け入れる約束を引き出すことに成功した。
蘇るあの時の記憶
また、寛永寺で謹慎中の慶喜を護衛していた精鋭隊頭・山岡鉄太郎(鉄舟)は、駿府まで進撃していた東征大総督府に赴くこととなった。
勝海舟は山岡鉄太郎と会った際、一見して使者にふさわしい男と判断したという。
山岡鉄太郎は街道にひしめく東征軍の中を「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る」と大音声で進み、西郷隆盛との会談に成功。
こうして始まった二人の会談は、江戸城明け渡しや武器、軍艦の引渡しについては双方が合意したが、「徳川慶喜の身柄を備前藩に預けること」だけは山岡鉄太郎が断固として拒否した。
そして山岡鉄太郎が「もし西郷先生が逆の立場で島津斉彬公を他藩に預けろと言われたら承知するか?」と詰問すると、ついに西郷隆盛は折れ、慶喜の処遇は一旦保留となった。
勝海舟とパークス
山岡鉄太郎の事前交渉を受け、徳川家の最高責任者である大久保一翁、勝海舟と西郷隆盛との江戸開城交渉は薩摩藩江戸藩邸において行われた。
この間に続々と東征軍が到着し、江戸城の包囲網は完成しつつあった。
西郷隆盛は血気にはやる土佐の板垣退助らを抑え、交渉終了までは攻撃を控えるよう戒めていた。
西郷隆盛と勝海舟との間で行われた会談では、保留となっていた「徳川慶喜の処遇」について勝海舟が『水戸で謹慎』を提案。
これを西郷隆盛は回答を京都へ持ち帰って検討することを約束し、江戸総攻撃中止が決定された。
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また、この会見に先立ち、イギリス公使・パークスは情勢を探らせる一方で、新政府には代表を横浜へ赴任させるよう要請していた。
これに応じた東征軍は関東へ入ると横浜のイギリス公使館へ向かい、江戸での戦争後の戦傷者の手当のため、病院の手配などを申し込んだ。
しかしパークスは「徳川慶喜は恭順すると言っているのに戦争を仕掛けるとはどういうことか」と東征軍の申し出を拒否し、慶喜が外国に亡命することも万国公法上は問題ないと脅す。
このパークスの怒りを伝え聞いた西郷隆盛は衝撃を受け、江戸総攻撃は中止に至ったともいう。
江戸無血開城
勝海舟との会談後、西郷隆盛は上京してさっそく朝議が開催された。
強硬論者だった西郷隆盛が慶喜助命に変わったことは、寛典論派の木戸孝允・山内容堂・松平春嶽らを大いに驚かせた。
結果、条件は少しの手直しで認められ、西郷隆盛は再び江戸へ下って最終合意に達し、江戸城へ入城。
慶喜は謹慎所の寛永寺から水戸へ出発し、ついに江戸城は無血開城となった。
やったど!
海軍副総裁・榎本武揚は徳川家に対する処置を不満とし、抗戦派の旧幕臣らとともに旧幕府艦隊を率いて東征軍に抵抗する東北諸藩の支援に向かった。
また、江戸近辺の抗戦派・彰義隊は、慶喜がいなくなっても寛永寺に居座り続けた。
しかし、大村益次郎率いる新政府軍が攻撃を開始すると、彰義隊は1日で壊滅し、抗戦派は江戸近辺から一掃された。
その後
この江戸無血開城により、人口100万人を超える江戸が戦火に巻き込まれなかったことに対し、のちに勝海舟は西郷隆盛を「江戸の大恩人」と讃えている。
しかし、これは新政府の主要士族たちにとっては納得のいかないことでもあった。
この時期、新政府軍はボヤっとした連合体にしか過ぎず、結束を高めるためにも連携して強大な敵を倒す必要があった。
このため新政府軍は、徳川慶喜と江戸城に代わる敵として松平容保の会津藩と江戸の薩摩藩邸を焼き討ちにした庄内藩を選び、戦争を継続していくこととなる。
西郷どん(せごどん)あらすじ
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