大河ドラマ西郷どん(せごどん)
京都守護職と京都所司代
大河ドラマ西郷どん(せごどん)で、会津藩主・松平容保と桑名藩主・松平定敬の兄弟が尊王攘夷過激派から京都を守るために就いた職が京都守護職と京都所司代。
安政の大獄で西郷吉之助や月照を追い詰めた京都所司代は、江戸幕府発足当初より設置されていたものですが、京都守護職については幕末の混乱する状況下で新たに設置された重職です。
松平容保や松平定敬が職に就くのは、安政の大獄より少し後のことになりますが、兄弟そろっての就任であったため、この職は二人のイメージが強く残りました。
今回は、京都で松平容保と松平定敬が活躍することになる「京都守護職」と「京都所司代」について簡単に紹介します。
京都守護職
条約勅許問題から端を発した安政の大獄により、幕府の権威は著しく低下し、尊王攘夷派の過激志士らは京都に集まって活動、治安の悪化を招いていた。
従来より京都には幕府が京都所司代・京都町奉行を置いて治安維持にあたっていましたが、過激派による暗殺や強盗などが横行したため、治安維持及び御所・二条城の警備を目的として文久2年(1862年)に薩摩藩主・島津忠義の父である島津久光が主導した文久の改革で設置しました。
幕政を担っていた一橋慶喜や松平慶永(春嶽)は、この京都守護職を会津藩主・松平容保に依頼。
しかし、浦賀や蝦夷地の警備の任にあたっていたため会津藩の財政は既に破綻寸前で、松平容保以下、家臣たちも就任には反対していました。
そこで松平慶永(春嶽)は「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在」という会津藩の家訓を持ち出し、ついに松平容保に承諾させました。
就任に対して「これで会津藩は滅びる」と、会津藩の家臣達は嘆いたといいます。
こうして、京都守護職に就いた松平容保は、本陣を金戒光明寺に置き、藩兵を千人が常駐させました。
京都守護職は京都を守る最高機関として京都所司代・京都町奉行・京都見廻役・京都見廻組を傘下に置き、さらに守護職御預かりとして新選組を組織させ、治安の維持にあたります。
元治元年(1864年)には、京都所司代に松平容保の弟である桑名藩主・松平定敬が任命され、兄弟で京都を守りました。
松平容保は長州藩に嫌悪感を持っていた孝明天皇から篤い信頼を得て任にあたり、一橋慶喜と共に兄弟で連携して京都に幕府から独立した権力を築きます。
その後、将軍となった徳川慶喜(一橋慶喜)は慶応3年(1867年)に大政奉還で幕府政治を終わらせると、新政府を牽引する薩摩藩や長州藩によって王政復古の大号令が出され、京都守護職は廃止されました。
京都所司代
京都所司代は京都に設置された行政機関ですが、織田信長が設置したものと江戸幕府が設置したものがあります。
江戸幕府によって設置された当初の京都所司代は、3万石以上の譜代大名から任命され、与力30騎(後50騎)同心100人を引きつれ、京都の治安維持、朝廷や公家、西日本諸大名の監視,畿内の民政を総括しました。
幕府政治が安定して以後は、京都所司代は有名無実化し、老中への出世のただの通過点になっていきます。
それでもなお、京都所司代は京都に置かれた役人の総元締めの立場にありましたが、幕末の情勢の中で混乱が生じると、京都所司代だけでは治安維持が厳しくなり、文久の改革で京都守護職が設置されて、京都所司代はその指揮下に組み込まれました。
京都所司代になった人物では、松平容保の弟・松平定敬が有名ですが、以前は「酒井」「本多」「牧野」など戦国時代から徳川家を支えた家臣の末裔が任命されています。