大河ドラマ西郷どん(せごどん)
孝明天皇
大河ドラマ西郷どん(せごどん)の第13話で、西郷吉之助は島津家と縁の深い京都の公家・近衛家で僧の月照と知り合います。
この時、吉之助は島津斉彬が月照を使って考えていた計画に驚きました。
それは、孝明天皇とも親交のある月照を通じて、帝から次の将軍を一橋慶喜にする詔を出してもらおうとするもの。
下級武士であった吉之助からすれば、天皇の名が出てくることなんて予想もしなかったでしょう。
今回は、将軍後継者問題、条約調印問題に大きな影響力を持った孝明天皇について簡単に紹介します。
孝明天皇
孝明天皇は、天保2年(1831年)に仁孝天皇の第四皇子として誕生し、煕宮(ひろのみや)と命名されました。
傳役には近衛忠煕が就き、天保11年(1840年)に皇太子、弘化3年(1846年)の仁孝天皇の崩御に伴って天皇に即位しました。
孝明天皇は大変な「攘夷」論者で、相次いだ外国船の来航に対する幕府の対応状況を即位後すぐに報告させています。
安政5年(1858年)、幕府は「日米修好通商条約」の調印勅許を得るため、老中首座の堀田正睦が上京しました。
朝廷内では、開国論を主張していた太閤・鷹司政通は開国反対へ、開国反対の立場にあった関白・九条尚忠は幕府方へ転向するなど意見は混乱。
九条尚忠は幕府に協力し「幕府へ委任」で意見をまとめましたが、開国反対88人の公卿が列参という事件を起こし、もともと攘夷論者であった孝明天皇も再考を促しました。
その後、幕府は勅許のないまま日米修好通商条約に調印。
これを聞いた孝明天皇は怒り、譲位の意思まで示して九条尚忠ら幕府寄りの公家を焦らせます。
九条尚忠らは状況説明のため、大老・井伊直弼や御三家などを上京させようとしましたが、多忙や謹慎中などの理由をつけられ、結局上京してきたのは酒井忠義と間部詮勝だけでした。
一方、幕府は日露修好通商条約、日英修好通商条約を勅許がないまま調印。
不満が募った孝明天皇は、近衛忠煕、鷹司輔煕、一条忠香、三条実万に対し、自身が出した「御趣意書」を関東へ送るように命じます。
幕府と水戸藩へ出した「御趣意書」は戊午の密勅と呼ばれ、幕政の改革と攘夷の実行を命じるものでした。
この時、九条尚忠はこの勅書へ勝手に添書を付けたため、関白を辞職させられます。
幕府から上京してきた間部詮勝は、戊午の密勅に関わった尊王攘夷派の志士、公家たちを捕縛し始め、世に言う「安政の大獄」が始まります。
その後も間部詮勝は、九条尚忠を関白に復職させて「無断調印は幕府の本意ではない」から言い訳をしながら、皇族や公卿の家臣を逮捕し続けました。
安政6年(1859年)には、幕府と九条尚忠の圧力によって近衛忠煕、鷹司輔煕、一条忠香、三条実万が処分され、孝明天皇は孤立させられます。
さらに幕府は公武合体を推進し、万延元年(1860年)に和宮の将軍家降嫁を計画。
これに対し孝明天皇は再三拒絶していましたが、鎖国と攘夷実行の条件を付けて承知することにしました。
しかし、幕府は具体的に鎖国、攘夷実行を約束せず、状況に応じて行うという曖昧な返事で回答。
やむなく孝明天皇は和宮降嫁を決断し、和宮も説得されて受諾し江戸城に入りました。
文久3年(1863年)に、将軍・徳川家茂が上洛してきた際、孝明天皇は攘夷の勅命を下して実行させようとしましたが、うまくかわされて空振り。
その後は、幕府と薩長などの権力を争いに巻き込まれ、孝明天皇の権威は低下していくことになりました。
慶応元年(1865年)、攘夷運動が無くならないのは孝明天皇にあると考えた外国列強は、艦隊を大坂湾に侵入させて条約の勅許を要求。
孝明天皇もついに事態の深刻さを悟り、条約の勅許を出しました。
孝明天皇の考えが次第に攘夷から公武合体へと変わってくると、薩長などから天皇に対する批判も生まれ始めました。
そんな中、慶応2年(1867年)に孝明天皇は満35歳で崩御。
死因は天然痘と診断されましたが、他殺説もまことしやかにささやかれています。