大河ドラマ西郷どん(せごどん)
吉田稔麿(よしだとしまろ)
大河ドラマ西郷どん(せごどん)の第27話では、新選組による襲撃事件「池田屋事件」が起こります。
事件の舞台となった池田屋には、長州藩士をはじめとする尊王攘夷派志士たちが、京に火をつけて天皇を連れ去る計画を練っていました。
その中で中心的なじ役割を果たしていたのが、今回紹介する「吉田稔麿(よしだとしまろ)」。
この記事では、吉田松陰の松下村塾で学び、高杉晋作と並び称されるほどの人物だった「吉田稔麿」について簡単に紹介していきます。
吉田稔麿(よしだとしまろ)
吉田稔麿は、天保12年(1841)に萩藩士・吉田清内の嫡子として生まれました。
稔麿は久保五郎左衛門が教えていたころから松下村塾に通っていて、無駄口を利かず、眼光鋭い少年だったといわれています。
吉田松陰が禁固を命ぜられて実家に戻り、松下村塾を引き継いだため、稔麿は改めて入門し、兵学を究めました。
武術でも稔麿は才を見せ、宝蔵院流の槍術、柳生新陰流の剣術を修めると、文武両道の士として松陰だけでなく、多くの人々に高く評価されていきました。
また、松下村塾の仲間内でも評価は高く、高杉晋作はのちに総理大臣となる山県有朋と稔麿を比べることすらできないと述べています。
さらに初代総理大臣・伊藤博文も過去を振り返り、稔麿のことを自分と比べることができないほどの奇才であったと語っています。
大河ドラマ「花燃ゆ」の吉田稔麿
高杉晋作、久坂玄瑞、入江九一と共に松門四天王と称された稔麿ですが、松陰刑死後は何をしていたのかあまり分かっていません。
万延元年(1860)には長州藩を脱藩したものの、2年後には罪を許されて復帰し、文久3年(1863)には高杉晋作の奇兵隊に参加。
文久3年(1863年)の長州藩の外国船砲撃(下関戦争)では、稔麿が幕府が派遣した使節団を乗せる朝陽丸に乗り込み、一時占拠する事件も起こしています。
その後、京に上った稔麿は、元治元年(1864)に池田屋事件に遭遇します。
稔麿は事件前に一度屯所に寄り、しばらくして向かうと新選組が池田屋を取り囲んでいました。
稔麿はそのまま戦闘に参加して、奮闘の末に討ち死にしたといいます。
この池田屋事件での稔麿の最期は、他にも様々な説があり、屯所にいた稔麿が脱走者から危機を聞いて駆けつけ、加賀藩邸前で会津藩兵に討ち取られた説や、はじめから池田屋に居て襲撃され、長州藩邸に駆け込んだものの、門を開けてもらえず、門前で自刃したという説があります。
なんにせよ、稔麿は才能を十分に発揮することなく、24歳の若さでこの世を去ってしまいました。
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