大河ドラマ西郷どん(せごどん)
宮部鼎蔵(みやべていぞう)
大河ドラマ西郷どん(せごどん)の第22話「偉大な兄 地ごろな弟」で西郷吉之助は「国父」島津久光に命じられ下関で薩摩本隊を待っていますが、その時に吉之助は京都には尊王攘夷派の志士たちが続々と集まっていることを聞きました。
この時、京都に集まり出した中に尊王攘夷派の肥後藩士・宮部鼎蔵(みやべていぞう)がいます。
この宮部鼎蔵は吉田松陰と親交が深く、安政の大獄で松陰が死んだ後も長州藩と結びついて、過激な尊王攘夷活動を行おうとしていました。
今回は、のちに新選組が名を馳せる「池田屋事件」で命を落とす尊王攘夷派の巨頭・宮部鼎蔵について簡単に紹介します。
大河ドラマ「花燃ゆ」での宮部鼎蔵(ビビる大木)
宮部鼎蔵(みやべていぞう)
宮部鼎蔵は、肥後国の医者の家系に生まれ、のちに叔父・宮部増美の養子となりました。
鼎蔵は山鹿流軍学を学び、30歳の頃に熊本藩に召し出されます。
さらに鼎蔵は林桜園に国学などを学んで、長州藩の吉田松陰と知り合い親交を深めて、嘉永5年(1852)には松陰の東北遊学に同行しました。
この東北遊学では、水戸で会沢正志斎と面会し、会津では日新館や東北の鉱山を見学、秋田の相馬大作事件の現場を訪ねて、津軽においては津軽海峡を通行する外国船を見学しようとしました。
ちなみにこの遊学に際し、松陰は鼎蔵との出発日の約束を守るため、長州藩からの通行手形の発行を待たず脱藩したため、江戸に帰ってから松陰は罪に問われて士籍剥奪・世禄没収の処分を受けています。
その後も松陰との親交は続き、嘉永6年(1853年)にペリーが浦賀に来航すると、松陰は鼎蔵に「聞くところによれば、彼らは、来年、国書の回答を受け取りにくるということです。その時にこそ、我が日本刀の切れ味をみせたいものであります」という書簡を送っています。
さらに松陰は鼎蔵に、ペリーの再来航に先駆けて密航する計画を打ち明けました。
当然、鼎蔵は止めましたが、松陰の決意に押され「皇神の まことの道をかしこみて 思いつつゆけ 思いつつゆけ」という一首を詠み激励しています。
しかし、この密航は失敗に終わり、松陰は自首。
事件を事前に知っていた鼎蔵も、幕府から処分を受け、熊本に戻ることになりました。
熊本に戻ってからはひっそりと暮らしていた鼎蔵ですが、そんな中でも長州藩の久坂玄瑞が訪ねて来るなど、諸国の志士からは名の知れた人物となっていました。
このとき、鼎蔵は久坂玄瑞に長州に戻っていた吉田松陰のもとで学ぶことを勧めています。
宮部鼎蔵や久坂玄瑞、さらに越前藩の橋本左内など、医者を家業にしていた者が多かったのは、それだけ幼い頃から蘭学などの書物から学ぶことが多かったからでしょう。
その後、鼎蔵が故郷で息をひそめている間に、松陰は安政の大獄で処刑されました。
盟友を失った鼎蔵は、文久元年(1861)に肥後勤皇党に参加し、尊王攘夷運動を開始します。
この肥後勤王党は京都や薩摩藩の様子を伺い、公家や諸藩の志士と交わって藩論を「尊王攘夷」に転換すべく行動しました。
このような鼎蔵の行動は、諸国の志士たちの耳にも届き、翌年には浪士組の発端を作った清河八郎の訪問も受けています。
こうして尊王攘夷志士たちと深く繋がっていった鼎蔵は、長州藩士らと共に京都で活動を始めますが、文久3年(1863)に八月十八日の政変が起こり、長州藩が京より追放されると鼎蔵も長州藩へ去るることになりました。
しかし、翌年には鼎蔵は再び京都へ潜伏し、古高俊太郎のところに身を寄せます。
そして元治元年(1864)6月5日、池田屋で会合中に新選組に襲撃され、奮戦むなしく自刃しました。享年45。