大河ドラマ「西郷どん(せごどん)」
岩倉遣欧使節団
大河ドラマ西郷どん(せごどん)の第41話、岩倉具視率いる「岩倉遣欧使節団」がアメリカ、ヨーロッパに出発し、明治政府の中はガラガラになってしまいます。
出発前、西郷隆盛は「本当に今、行かなきゃいけないの?」とツッコんでいますが、使節団に選ばれた者達はまるで修学旅行のような雰囲気で、残された者達からも反対意見は出ませんでした。
それもそのはず、日本に残される江藤新平、後藤象二郎などは大久保利通たちが留守の間に政府の主導権を奪おうと画策していたからでした。
この記事では、帰国後に政府内での対立を激化させた「岩倉遣欧使節団」について簡単に紹介していきます。
そや!ヨーロッパいこ!
岩倉遣欧使節団
岩倉遣欧使節団は明治4年(1871年12月23日)~明治6年(1873年9月13日)の間、アメリカ、ヨーロッパ諸国に派遣された大使節団。
岩倉具視を正使とし、大久保利通、木戸孝允ら政府首脳陣や、留学生を含む総勢107名で構成されていた。
その目的は各国との友好親善、欧米先進国の文明視察と調査、及び旧幕府との間に締約された不平等条約改正の予備交渉であった。
この岩倉遣欧使節団は、もともと大隈重信の発案によって小規模な使節団を予定していたが、政治的思惑などから大所帯となり、政府のトップがゴッソリ国を離れてします極めて異例なものとなった。
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明治4年(1871)に横浜港を出発した使節団は、まず太平洋を渡り、アメリカカ・サンフランシスコに向かった。
その後、アメリカ大陸を横断してワシントンを訪問し、約8か月の長期滞在となった。
使節団のほとんどは断髪・洋装だったが、日本文化に誇りを持つ正使・岩倉具視は髷と和服という姿だった。
しかし、アメリカに留学していた子の岩倉具定らに「野蛮人と誤解される」と説得され、岩倉具視はシカゴで断髪し洋装に改めている。
その後、使節団は大西洋を渡って、ヨーロッパ各国を歴訪。
明治5年(1872)にイギリスのロンドン、マンチェスターなどを経て、スコットランドのグラスゴー、エディンバラを視察し、再びロンドンへ。
ウィンザー城ではヴィクトリア女王にも謁見し、明治6年(1873)にはドイツ宰相・ビスマルクが主催する官邸晩餐会にも参加した。
ヨーロッパでの訪問国は12か国にも上り、帰路には地中海からスエズ運河、紅海を経てアジア各地のヨーロッパ諸国の植民地の訪問も行われ、出発から1年10か月後の明治6年(1873年9月13日)に帰国した。
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西洋文明や思想に直接触れ、多くの国情を体験したことは使節団に参加した者に大きな影響を与え、同行した留学生も、帰国後に様々な分野で活躍し、日本の文明開化に大きく貢献する一因を作った。
しかし、条約改正交渉については日本に近代的な法制度が整っていないことなどを理由に不成功に終わり、また木戸孝允と大久保利通の不仲などの政治的な問題を引き起こした。
莫大な費用を使い、成果を上げられなかったとの大きな批判を浴びた使節団は、留守政府との間に確執を生み、帰国早々に朝鮮出兵を巡る征韓論争によって明治六年の政変が起こることになった。
西郷どん(せごどん)あらすじ
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