大河ドラマ西郷どん(せごどん)
大隈重信
大河ドラマ西郷どん(せごどん)で明治新政府が樹立したあと、尾上寛之演じる大隈重信が登場します。
大隈重信は早稲田大学の創始者として教育の部分で有名な人物でもありますが、明治政府の中では外交手腕を高く評価され、一気に出世を遂げていった大政治家でもあります。
大河ドラマでは主人公・西郷隆盛に強烈に嫌われたり、初代総理大臣となる伊藤博文からは一時排除されたりなど、なにかと敵の多い人物ではありましたが、その卓越した政治手腕は政府にとってはなくてはならないものでした。
この記事では動乱の幕末を生き抜き、明治政府内で絶大な影響力を持っていく大隈重信について簡単に紹介しています。
大隈重信
大隈重信は、天保9年(1838)に佐賀藩士の大隈信保の長男として生まれた。
藩校・弘道館に入学した大隈重信は教育を受ける中で、同志とともに藩校の改革を訴えるなど反発し、安政2年(1855)に退学。
その後、蘭学を学んだ大隈重信は弘道館教授として返り咲き、今度は教育者として活躍し始めた。
また、慶応元年(1865)に佐賀藩が開設した英学塾「致遠館」で副島種臣と共に指導にあたる一方、自身はフルベッキから英語を学んだ。
このとき、大隈重信は新約聖書やアメリカ独立宣言の内容を知って、その後の人生に大きな影響を受けたといわれる。
一方、国学も学んでいた大隈重信は尊皇派組織の「義祭同盟」に副島種臣、江藤新平らと参加していた。
討幕か佐幕か、揺れ動く時勢の中、大隈重信は幕府と長州の調停の斡旋を藩に説いたが受け入れられることはなかった。
しかし、その後も大隈重信は尊王派として京都や長崎で活動し、慶応3年(1867)には副島種臣と共に将軍・徳川慶喜に大政奉還を勧めることを計画する。
計画実行のために大隈重信は脱藩して京都まで赴いたが、あえなく捕縛されて佐賀で1か月の謹慎処分を受けることとなり、そのまま明治維新を迎えた。
明治新政府が樹立すると、すぐにキリスト教徒を弾圧する事件(浦上信徒弾圧事件)が起こり、政府はイギリス公使・パークスから猛抗議されていた。
信教の自由を求めるパークスの対処に困った政府は、小松帯刀の推挙で大隈重信を外国事務局判事に任命して対応にあたらせることとする。
しかし、当時31歳の大隈重信は、パークスから「小役人とは話はできない」と見向きもされない。
すると大隈重信は「一国の代表者である私と話したくないと言うのなら、抗議は全面撤回とみなす。また、あなたの言うことは、国際法で禁止されている内政干渉である」と言い返して、パークスをひるませた。
さらに「ある歴史家は欧州は戦乱の歴史だと言う。またある宗教家は欧州はキリスト教の歴史だと言う。この二つをまとめるとキリスト教の歴史は戦乱の歴史である。キリスト教が生まれて以来、欧州の人民を苦しめているのは誰の責任だ?」と言い放ち、パークスに早期のキリスト教の開放を諦めさせた。
この功績が評価された大隈重信は、その後政界の中心へと一気に躍り出ることになっていく。
政府から重用され始めた大隈重信は、鉄道・電信の建設、工部省の開設など日本の近代化のために尽力。
明治5年(1872)には伊藤博文らと協議して富岡製糸場の設立を決め、翌年には大蔵卿にまで上り詰めた。
さらに明治4年(1874)、日本政府がウィーン万国博覧会の参加要請を受けると、大隈重信は博覧会事務局の総裁として万国博覧会に参加し、日本館を連日大盛況の成功に導く。
卓越した政治的手腕を振るう大隈重信のもとには、伊藤博文や井上馨などの若手官僚が集まり、さらに木戸孝允からの協力も得て、独裁色を強めていた大久保利通を牽制していった。
この頃、大隈重信は西郷隆盛から「俗吏」とみなされて嫌われており、政策を「武士のやることではない」とまで酷評されていた。
このため、大隈重信の西郷隆盛への反感感情も相当のものであったという。
そんな中で起こった征韓論争では、大隈重信は内政重視の立場から出兵に反対し、さらに西南戦争では費用の調達など財政運営に携わって政府軍を勝利に導いた。
その後、大隈重信は政治家として自由民権運動に同調し、国会開設意見書を提出して早期の憲法公布と国会の即時開設を説いた。
相変わらず辣腕を振るっていた大隈重信であったが、開拓使官有物払下げを巡って伊藤博文ら薩長勢と対立すると、明治14年(1881)に参議を免官にされ、辞表を提出させられた。
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下野した大隈重信は、10年後の国会開設に備えて明治15年(1882)に立憲改進党を結成。
また、東京専門学校(現早稲田大学)を早稲田に開設した。
慶応義塾を開設した福澤諭吉と大隈重信は当初は仲が悪く、度々雑誌でお互いを罵り合っていたが、直接対面してみると両者は意気投合し、福澤諭吉のススメで大隈重信は早稲田大学を作ったという。
明治21年(1888年)、伊藤博文が不平等条約改正のため、政敵であった大隈重信を外務大臣として選んだ。
二人はお互いをライバル視していたが、一方では政治手腕を認め合った関係だった。
伊藤博文がハルビンで暗殺された時、大隈重信は「なんと華々しい死に方をしたものか」と号泣したともいわれる。
その後、黒田清隆が組閣すると、大隈重信は引き続き外務大臣を務めて外国人判事の導入を進めた。
しかし、これが反対派の猛烈な抵抗に遭い、明治22年(1889)に国家主義組織「玄洋社」から爆弾による襲撃を受け、大隈重信は右脚を切断する重傷を負って辞職となった。
明治29年(1896)、 第2次松方内閣の際、大隈重信は再び外相に就任するが、薩摩勢と対立して翌年には辞職。
しかし、大隈重信は板垣退助らと憲政党を結成し、明治31年(1898)に薩長藩閥以外から初めての内閣総理大臣となり、日本初の政党内閣を作った。
この大隈内閣は、党内の対立とアメリカに対する強硬姿勢で外交危機を招き、わずか4か月後で総辞職となってしまう。
明治40年(1907)、大隈重信は政界を引退し、早稲田大学総長への就任、精力的に文化事業を展開していった。
翌年にアメリカの大リーグ選抜チームと早稲田大学野球部の試合が行われた際、大隈重信は日本で初めて始球式を行う。
この時、大隈重信の投球は暴投であったが、気を使った早稲田大学の1番打者はわざと空振りをしてストライクにした。
以降、日本では始球式の投球は空振りをすることが慣例となっていった。
第一次護憲運動が興ると大隈重信は政界に再復帰し、大正3年(1914)には76歳で2度目の内閣を組織する。
大正5年(1916)、第一次世界大戦が起こると中国大陸での権益確保を図り、対華21ヶ条要求を提出。
しかし、内相・大浦兼武の汚職事件が起こると、大隈内閣は次第に国民の支持を失い、またしても総辞職。
以後、大隈重信も政界から完全に引退し、大正11年(1922)に胆石症で死去した。享年85。
日比谷公園で行われた「国民葬」には約30万人の一般市民が参列したといわれる。
西郷どん(せごどん)あらすじ
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