大河ドラマ西郷どん(せごどん)
彰義隊と上野戦争
大河ドラマ西郷どん(せごどん)で、西郷吉之助と勝海舟の会談によって「江戸無血開城」が行われ、江戸の町は戦火から救われました。
また、徳川慶喜も新政府への恭順姿勢を貫いていましたが、この状況に『待った』をかけたのが「彰義隊」と呼ばれる旧幕臣たちのグループ。
この「彰義隊」は新政府軍への反抗意識をバリバリに持っていて、ついには「上野戦争」と呼ばれる戦闘に発展していきます。
この記事では林家正蔵が演じる大村益次郎によって、たった1日で殲滅させられてしまう「彰義隊」について簡単に紹介しています。
彰義隊と上野戦争
鳥羽・伏見の戦いの後、江戸に戻った徳川慶喜は上野寛永寺に蟄居して新政府に対する恭順の意を表していた。
しかし、これに不満をもった一部の幕臣たちは会合を開き、一橋家に仕えていた幕臣・渋沢成一郎を招いて組織化し、「大義を彰(あきら)かにする」という意味の「彰義隊」を結成して新政府に反抗的な態度を見せ始めた。
この「彰義隊」の頭取には渋沢成一郎、副頭取には天野八郎が投票で選ばれていた。
渋沢成一郎
出典:https://www.shibusawa.or.jp/
旧幕府の恭順派は「彰義隊」が新政府に目をつけられることを恐れ、江戸市内の警護の任務を与えて懐柔を図るものの、結成の噂を聞きつけた者の入隊が相次ぎ、隊士は1,000名を越える規模にまで成長していく。
江戸城が新政府に明け渡され、徳川慶喜が水戸へ退去しても「彰義隊」は寛永寺を拠点に江戸に残り続けたため、武力衝突を懸念した勝海舟は解散を促したが、新政府軍と戦おうとする脱走兵が各地から集まり、ついに「彰義隊」は3000~4000人規模にまで膨れ上がる。
頭取・渋沢成一郎は大所帯となった「彰義隊」も慶喜に倣って江戸を退去することを提案したが、副頭取・天野八郎がこれを認めずに渋沢暗殺まで計画してきた。
このため、渋沢成一郎は「彰義隊」を離脱し、新たに「振武軍」を結成して独自に活動を展開していくが、残された「彰義隊」は天野八郎のもとでさらに強硬姿勢を強めていった。
その後も「彰義隊」の新政府への敵対姿勢が止まらず、江戸では隊士の手で新政府軍兵士への集団暴行殺害が繰り返されていった。
勝海舟ら旧幕府首脳はこの事態を収めるべく、山岡鉄舟を派遣して「彰義隊」の解散勧告を行うも拒絶され、ついに新政府も「彰義隊」討伐を考え始める。
そして新政府は、武力討伐を渋る西郷隆盛から権限を取り上げ、京都から新たな統率者として長州藩士・大村益次郎を送り込んだ。
「西郷どん」での山岡鉄舟
この大村益次郎は慎重派の薩摩藩士・海江田信義らを抑えて武力殲滅を主張し、「彰義隊」を追い詰めるため江戸市中取締の任を解いて武装解除を命じる。
これに「彰義隊」が反発して上野近辺で衝突事件が発生すると、大村益次郎の指揮で上野戦争と呼ばれる「彰義隊」討伐戦が始まった。
大村益次郎は念密な殲滅作戦を考え出していたが、遂行には大金が必要であった。
このため、大村益次郎は軍艦購入を予定していた資金を大隈重信からブン取り、更に江戸城内の徳川家の財宝を外国商人に売り払って資金を調達していた。
豊富な資金を得た大村益次郎率いる新政府軍は、寛永寺に立て籠る「彰義隊」を完全包囲し、雨中総攻撃を行って1日で殲滅。
この時、江戸城で指揮を執っていた大村益次郎は、時計を見ながら勝利する時間を予測し、残党の敗走経路も予測通りであったといわれる。
「西郷どん」での大村益次郎
一方、渋沢成一郎が率いる「振武軍」は「彰義隊」の援護に赴いたが、途中で「彰義隊」の敗北を知って敗残兵の一部と合流して退却するにとどまった。
逃走した「彰義隊」の中には北陸や東北に逃れて新政府軍と抗戦する者もいたが、捕らえられた者は厳しく処罰され、天野八郎も投獄後に数ヶ月で死亡した。
この上野戦争と呼ばれる戦闘ののち、江戸では特に戦闘が起こることはなく、新政府要人が続々と移転して来た。
そして江戸は「東京」と名を変え、明治天皇を迎えて明治新政府の首都として生まれ変わっていった。
西郷どん(せごどん)あらすじ
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