大河ドラマ西郷どん(せごどん)
佐賀の乱
大河ドラマ西郷どん(せごどん)の第44話、明治六年の政変で西郷隆盛と共に政府を去った江藤新平は、佐賀で士族を率いて反乱を起こします。
「佐賀の乱」と呼ばれたこの戦いで、江藤新平はあっけなく敗れ去り、すぐに西郷隆盛に力を貸して欲しいとすがりつくことになりますが、この記事では政府によって士族反乱の見せしめにも使われた「佐賀の乱」について簡単に紹介しています。
佐賀の乱
征韓論争による明治六年の政変で政府を追われた江藤新平は、共に辞職した板垣退助や副島種臣、後藤象二郎らの警告を無視して佐賀に戻っていた。
佐賀は征韓論を主張した反政府的な「征韓党」と、封建制への復帰を主張する保守的な「憂国党」が結成されており、政府から目をつけられていた。
そんな中、「憂国党」のメンバーが官金預かり業者を襲う事件が発生し、政府は熊本鎮台の司令長官・谷干城に佐賀士族の鎮圧を命じる。
このため「憂国党」の党首・島義勇は三条実美の依頼で佐賀県士族を抑えようと佐賀に向かったが、政府の強硬な態度を知ると反乱を決意。
島義勇は不仲だった江藤新平と会談して共に反政府の狼煙を上げることとなった。
しかし、「征韓党」と「憂国党」はもともと思想が異なっていたため、両党が協力して行動することは少なかった。
一方、政府の内務卿・大久保利通は佐賀討伐のため東京から鎮圧部隊を引き連れ、大阪の鎮台部隊等も動員。
現地でも江藤新平らに刺激された士族の暴発を防ごうと福岡県でも佐賀討伐の士族の徴募を行った。
このため、佐賀士族である「中立党」が政府軍に協力するなど、『佐賀が決起すれば各地の不平士族が続々と後に続く』という江藤新平らの考えは未然に防がれてしまった。
江藤新平らは迫りくる政府軍に真意を確かめよう会談を試みたが、拒絶されたために佐賀城を奪取。
そして福岡入りした大久保利通が本隊を進撃させ、「佐賀の乱」は本格的な戦闘が始まった。
しかし、佐賀軍は連敗を喫し、江藤新平も自ら陣頭指揮を執って政府軍の背後を突こうとしたが、逆に背後から攻撃を受け敗退。
勝機を失った江藤新平は「征韓党」を解散して鹿児島へ向かい、下野していた西郷隆盛に助力を求めようとした。
この時、江藤新平は「憂国党」には無断で戦線離脱したため、「憂国党」の面々は激怒している。
鹿児島に着いた江藤新平は西郷隆盛に決起の意志がないことを確認すると、次は高知へ向かい片岡健吉ら挙兵を訴えることとした。
しかし、すでに高知には手配書が配られており、江藤新平は捕縛されてしまう。
江藤新平は捕吏長の厚意で脱走を勧められたが「裁判で闘う」と言って応じなかったという。
また、手配書の制度は江藤新平が司法省時代に整備した制度であった。
一方、江藤新平が離脱した佐賀では、城下に迫った政府軍に佐賀軍は降伏と謝罪を申し出たが、内容が無礼として受理されず、首謀者たちは捕縛されていた。
江藤新平は東京での裁判を望んだが、大久保利通は急遽設置した臨時裁判所において、権大判事・河野敏鎌に審議を行わせた。
そして、わずか2日間の審議で11名が判決当日に斬首となり、江藤新平と島義勇の首は見せしめとして市中に晒された。
裁判では、はじめから刑が決まっていて江藤新平らに答弁の機会も与えられていなかった。
明治政府の司法制度を整備した江藤新平が、かつての部下・河野敏鎌の裁判の進行を非常に嘆いていたという。
出典:https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/
江藤新平らの処刑後、あらゆる場所で「維新に大きく貢献した人物にしては刑が重すぎる」という声が上がった。
英国公使・パークスも「判決が大きな不満を呼んでおり、個人的感情による復讐のようだ。佐賀の乱鎮圧で政府への信頼が回復したとは言えない」と記している。
また、処刑前に佐賀出身の現職参議・大木喬任が江藤新平の助命に動き、岩倉具視も協力して明治天皇の裁可で特赦が定まっていたという。
岩倉具視の使者はすぐに佐賀に送られていたが、伊藤博文は使者が着く前に殺してしまえと大久保利通に伝え、死刑が執行された。
この「佐賀の乱」後、佐賀では士族らを中心に不穏な動きが続き、西南戦争などに合流する士族もあったが、その後佐賀で反乱が起こることはなかった。
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