大河ドラマ西郷どん(せごどん)
アレクサンダー・シーボルト
大河ドラマ西郷どんの第33話、薩摩を訪れた英国公使・パークスの隣にいるのが通訳であるアレクサンダー・シーボルト。
このアレクサンダー・シーボルトは父の代から日本と縁のあるドイツ人通訳で、明治維新後は日本のために各国と交渉して多大な功績を残した人物です。
この記事では、激オコ・パークスの隣で通訳を務めた「アレクサンダー・シーボルト」について簡単に紹介したいと思います。
アレクサンダー・シーボルト
シーボルト家と日本行き
アレクサンダー・ゲオルク・グスタフ・フォン・シーボルトは、1846年にドイツ人のフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの長男として生まれた。
父・フィリップは日本のオランダ商館で医師をしていたが、1828年に国禁である日本地図を国外に持ち出そうとした事件(シーボルト事件)を起こしていた。
このシーボルト事件では、フィリップは捕まった日本の友人たちを助けようと日本に留まり、残りの人生は人質になるとさえ申し出たが、結局日本を追放されて再渡航を禁止されていた。
しかし、1858年(安政5年)に日蘭通商条約が結ばれると、フィリップに対する追放令も解除となる。
フィリップは日本に戻ることを希望し、オランダ貿易会社顧問の職を得て、1859年に長男・アレクサンダーを連れて30年ぶりの再来日を果たした。
左:フィリップ 右:アレクサンダー
出典:http://www.museum.city.nagoya.jp/
長崎に到着すると、アレクサンダーは二宮敬作や三瀬諸淵ら蘭学者、さらに近所の僧侶から習字や日本語を学んだ。
1861年(文久元年)、父が幕府顧問となったため、親子は江戸に移住し、アレクサンダーは父の手配でロシア海軍の通訳になって、1862年(文久2年)には15歳で英国公使館特別通訳生として雇用された。
この年に父は帰国し1866年に死去。
当時、幕府にはオランダ語通訳がいるだけで、イギリスとの交渉は日本語→オランダ語、オランダ語→英語へと一段階手間をかけていた。
アレクサンダーは、薩摩藩が起こした生麦事件の交渉にアーネスト・サトウとともに通訳として立ち会っているが、この頃もまだオランダ語を介していた。
通訳官:アレクサンダー・シーボルト
1863年(文久3年)、アレクサンダーはイギリスの国家試験に合格して正式の通訳・翻訳官に任命される。
直後に起こった薩英戦争でアレクサンダーは通訳を務め、その後は下関戦争、兵庫の早期開港交渉などを担当した。
1867年(慶応3年)のパリ万国博覧会の際、ヨーロッパ派遣された使節団の通訳としてアレクサンダーも同行したが、その間に明治維新が起こり、使節団は新政府からの命令を受けて帰国することとなった。
使節団の帰国後、アレクサンダーはしばらくヨーロッパにとどまり、1869年(明治2年)に弟・ハインリヒを連れて日本に戻った。
左:アレクサンダー 右:ハインリヒ
出典:http://www.kaikou.city.yokohama.jp/
日本に戻ったアレクサンダーは、オーストリアの通商使節を助け、その功績によりオーストリア皇帝から男爵位を与えられるなど活躍。
1870年(明治3年)に英国公使館を辞職すると、次は新政府に雇用されてロンドンで日本人留学生の監督保護を担当した。
その後、アレクサンダーは日本とヨーロッパを何度も行き来し、日本の不平等条約の条約改正交渉を手伝い、1894年(明治27年)に日本の悲願であった治外法権の撤廃がなされた「日英通商航海条約」の調印を成功させた。
こののちはアレクサンダーは大きな活躍をしていないが、1910年(明治43年)には日本政府によって勤務40年の記念祝典が開催されて勲二等瑞宝章が贈られ、ドイツからもプロイセン第二等宝冠章が贈られた。
日本と世界の掛橋となり、日本だけでなく世界から認められたアレクサンダーは、1911年にジェノバ近郊のペリにて死去。享年65。
西郷どん(せごどん)あらすじ
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