大河ドラマ西郷どん(せごどん)
後藤象二郎
大河ドラマ西郷どん(せごどん)の第26話で、沖永良部島から戻った西郷吉之助は京都に上がり、繁の家で大久保一蔵と会いますが、そこで吉之助が見たのは生真面目だった一蔵が諸藩の藩士たちの前で「畳廻し」をして派手に盛り上がるでした。
一蔵は主君の島津久光が一橋慶喜らと対立を深めていたために、諸藩の側近たちを招いて接待をしていたのですが、その場にいた一人が前土佐藩主・山内容堂の側近である土佐藩士・後藤象二郎です。
大河ドラマ龍馬伝での後藤象二郎は、青木崇高さんが「性格の悪い奴」のように演じていて、今回の島津久光と丸かぶりなのですが、実際の後藤象二郎は、幕末に重要な働きをした英雄ともいえる人物。
今回の大河ドラマでは出番が少ないとは思いますが、この記事では幕末の重要人物の一人でる「後藤象二郎」について簡単に紹介します。
後藤象二郎
若き日の後藤象二郎
後藤象二郎は、土佐藩士・後藤正晴の長男として天保9年(1838)に生まれました。幼名は保弥太、良輔。
幼くして父を失った象二郎は、義理の叔父にあたる吉田東洋に預けられて育ちます。
成長した象二郎は、学問を吉田東洋が開いた少林塾で学び、剣術は柳河藩士・大石種昌の大石神影流剣術を学びました。
この頃、乾退助(板垣退助)も共に少林塾で学んでいて、お互いに「いのす」(乾猪之助)、「やす」(後藤保弥太)と呼び合うほどの仲でした。
安政5年(1858年)に藩に出仕すると、象二郎は吉田東洋のコネもあって順調に出世していきます。
しかし、文久2年(1862)に吉田東洋が暗殺されると象二郎の環境も一変。
任を解かれた象二郎は、江戸に出て自己研鑽に努めます。
その後、勉学の甲斐あってか、藩政に復帰した象二郎は、事実上実権を握っていた前藩主・山内容堂の信頼を得て大監察や参政の要職に就きます。
そして、象二郎は尊王攘夷の急先鋒である土佐勤皇党を弾圧するなど土佐藩の公武合体運動を推進していきました。
この頃に象二郎は上海を視察して海外貿易を研究し、土佐藩を脱藩していた坂本龍馬と深く関わるようになりました。
「龍馬伝」での後藤象二郎↓
島津久光とほぼ一緒ww
出典:http://ryoumaarasuji.blog110.fc2.com/
大政奉還の立役者
慶応3年(1867年)、坂本龍馬の提案とされる「船中八策」に基づき、幕府が政権を朝廷に返す「大政奉還論」を山内容堂に提案。
一方で象二郎は、薩摩藩の西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀らと会談を行って薩土盟約を締結します。
しかし、あくまで倒幕路線を進める薩摩藩と思惑はズレはじめ、すぐに盟約は解消されました。
その後も象二郎は大政奉還のため尽力し、山内容堂とともに将軍・徳川慶喜に大政奉還建白書を提出。
これを受けて、ついに徳川慶喜は大政奉還を決意し、徳川幕府による政治が幕を引きます。
象二郎は大政奉還の日、土佐藩の代表として徳川慶喜と談判していましたが、緊張のあまり汗をかきまくり、近くにいた松平定敬はのちに「後藤の汗咄し(ばなし)」として噂になったといいます。
あ~キンチョーするーっ!
出典:http://news-papers.blog.so-net.ne.jp/
その後の後藤象二郎
この大政奉還の功によって大出世を遂げますが、象二郎の活躍は政治だけではありませんでした。
慶応4年(1868)、天皇に謁見に向かう英国公使・パークスの護衛を勤めた際、パークス暗殺を謀った浪士たちと斬り合い、そのうち一人・朱雀操を討ち取っています。
この象二郎の活躍には、イギリスのヴィクトリア女王から刀を贈られました。
新政府での象二郎は、大阪府知事や参与、参議などの多くの要職に就きましたが、明治6年(1873)に征韓論争で敗れて板垣退助、西郷隆盛らと共に下野。
その後、板垣退助や江藤新平・副島種臣らと共に「愛国公党」を結成し、民撰議院設立建白書署名の1人となります。
明治7年(1874)、象二郎は実業家に転身して商社「蓬莱社」を設立。
政府から炭鉱の払い下げを受けて経営に乗り出しますが、さすがの象二郎も商売については才がなかったようで、2年後に破綻して土佐出身で「三菱」を興した岩崎弥太郎に売却しています。
その後、政界に戻った象二郎は、逓信大臣、農商務大臣などを歴任しましたが、明治27年(1894)に収賄事件の責任をとって大臣を辞職し、明治30年(1897)に死去しました。