大河ドラマ西郷どん(せごどん)
河井継之助
大河ドラマ西郷どん(せごどん)の第38話で、西郷吉之助の弟・西郷吉二郎が北越戦争で命を落とします。
戊辰戦争で最大の激戦ともなったこの北越戦争で、新政府軍を苦しめていたのが「長岡の傑物」と呼ばれた長岡藩家老・河井継之助。
この河井継之助は藩政改革や最新兵器の購入など先進的な目を持ち、のちに西郷隆盛や勝海舟にも評価されるほどの人物でした。
この記事では、北越戦争で新政府軍を苦しめた「河井継之助」について簡単に紹介します。
河井継之助
悪ガキ時代
河井継之助は文政10年(1827)、長岡城下で代右衛門秋紀の長男として生まれた。
幼少の頃は礼儀や作法に従わない悪ガキだったが、藩校の崇徳館に入ると学問に目覚め、儒学や陽明学に傾倒していった。
天保13年(1842年)に元服」し「秋義」を名乗ったが、河井継之助は元服後も幼名である「継之助」を通称として用いていた。
嘉永3年(1850)に藩政改革を主導した村松忠次右衛門の一族の娘・すがと結婚し、その後の出世の糸口を作る。
その後、河井継之助は同年代の若手藩士らと日夜議論し、藩では要職に就いて改革推進派の主要メンバーとなっていった。
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藩主からの信任
嘉永5年(1852)、河井継之助は江戸に遊学すると、佐久間象山の門の塾にも通って砲術の教えを受ける。
ただ、河井継之助は象山の人柄は好きではなかったらしく、「佐久間先生はスゴイけど、どうも腹に面白くないところがある」と語っていたという。
この頃にペリーが来航し、幕府で老中に就いていた長岡藩主・牧野忠雅は家臣らに対して広く意見を求めた。
河井継之助は藩政改革の建言書を提出して藩主から評価され、御目付格評定方随役に任命されて帰藩することになった。
長岡では藩主独断での人事に反感を持った上層部の風当たりが強く、何もできないまま河井継之助は2カ月で辞職。
憤慨した河井継之助は藩主に対して門閥弾劾の建言書を提出したが、これは受け入れられることはなかった。
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安政2年(1855)、藩主の世継ぎ・牧野忠恭のお国入りにあたり、河井継之助は経史の講義を行うよう命じらた。
しかし、河井継之助は「講釈するために学問をしたのではない」と断り、藩庁からお叱りを受けたという。
また、この頃に射撃の練習に打ち込み、再び遊学に出るなど見識を深めていった。
藩政改革
文久2年(1862)、藩主・牧野忠恭が京都所司代になると河井継之助は京都詰を命じられた。
当初、忠恭は河井継之助から京都所司代の辞任を勧められたが承知しなかった。
しかし、攘夷実行が決定されたのをきっかけに忠恭は辞職して江戸に戻って老中となる。
これに伴い、河井継之助も公用人に命じられ江戸詰となったが、ここでも忠恭に老中辞任を進言。
この時、河井継之助は辞任撤回を説得しにきた分家の牧野貞明を罵倒してしまい、公用人を辞めて帰藩することになった。
しかし、慶応元年(1865)に郡奉行に就任すると、河井継之助は一気に出世街道を駆け上がり、藩の風紀粛正や農政改革、灌漑工事、兵制改革などを実施した。
ちなみに江戸に遊学中だったとき、河井継之助は遊郭に入り浸っていたが、長岡では風紀粛清のため遊郭を禁止している。
長岡藩が河井継之助によって改革されていく一方、中央政局は激しく動いていた。
慶応3年(1867)には将軍・徳川慶喜が大政奉還を行い、その後、討幕派は王政復古のクーデターを起こし新政府が樹立。
長岡藩は藩主・牧野忠訓が河井継之助を名代として議定所へ向かわせ、慶喜を擁護する内容の建言書を提出したが、新政府には無視されてしまった。
ガトリング砲
その後、鳥羽・伏見の戦いが起こると、大坂を警衛していた河井継之助らは、旧幕府軍の敗退と慶喜の逃亡を知って急いで江戸へ戻った。
そして河井継之助は藩主らを先に長岡へ帰させると、江戸藩邸や家宝をすべて売却し軍資金を調達。
横浜の武器商人からアームストロング砲、ガトリング砲、エンフィールド銃、スナイドル銃など最新兵器を購入し、長岡へ戻った。
当時、ガトリング砲は日本には3門しか存在せず、そのうち2門を長岡藩が所持することとなった。
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新政府軍が東北の旧幕府軍征討のため長岡に迫ると、藩の多くの者は恭順・非戦を主張したが、河井継之助は恭順派の動きを封じ込めて旧幕府と新政府の間で武装中立を主張する。
そして河井継之助は新政府軍との直談判へ臨み、旧幕府軍と新政府軍の調停を申し出た。
しかし、この談判は河井継之助が新政府軍監・岩村精一郎に対して「あなた方が真の官軍ならば恭順しても良いが、討幕と会津討伐の正当な理由は何か、本当は私的な制裁や権力奪取が目的なんだろう?それでは長岡領内への侵入と戦闘は断る」と言い放って決裂してしまう。
こうして開戦が決定すると長岡藩では恭順を主張していた者たちが出奔するなどし、河井継之助は名実共に全権を掌握した。
北越戦争
北越戦争において長岡藩は河井継之助の巧みな用兵により、当初は新政府軍の大軍と互角に戦っていたが、徐々に押され始めて長岡城を奪われた。
また、この時に大規模な世直し一揆が発生したため、長岡藩は新政府軍と戦っていた部隊の一部を一揆の鎮圧に割かなければいけなくなった。
これによって長岡藩の兵力が減少し、河井継之助の長岡城奪還計画は遅れて新政府軍が優勢となる。
この時、河井継之助は多くの領民を処罰したため、長岡での評価は非常に悪いものになっていった。
その後、逆襲に転じた長岡藩は、奇襲作戦を成功させて長岡城を辛くも奪還。
しかし、この奇襲作戦の最中、河井継之助は左膝に流れ弾を受け重傷を負ってしまった。
このため奇襲を受けて退却する新政府軍を追撃し、大打撃を与える作戦が決行できなかった。
その後、新政府軍は体勢を立て直し反撃に出ると、長岡藩に余力はなく長岡城は再び陥落。
河井継之助らは会津へ向けて落ちのびた。
この時、河井継之助は八十里峠を越える際に、「八十里 腰抜け武士の 越す峠」という自嘲の句を詠んでいる。
そして峠を越えて会津領内に入ると、河井継之助は会津より治療に来てくれた松本良順の診察を受けた。
すでに河井継之助の傷は破傷風によって手遅れな状態にあり、河井継之助も最期が近づきつつあるのを悟って後事を部下たちに託す。
そして河井継之助は談笑した後、眠りつくと危篤状態に陥り、そのまま死去した。享年42。
勝海舟は 「あれはナカナカの人物であったが惜しいことをした」と話し、西郷隆盛も 「確かに一代の傑物である」などと評価しているが、長岡では戦争責任者として非難する言動は明治以後、現在に至るまで続いている。
西郷どん(せごどん)あらすじ
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