大河ドラマ西郷どん(せごどん)
【南紀派】
メンバー紹介
大河ドラマ西郷どんで、又吉直樹が演じる第13代将軍・徳川家定の後継者、次期将軍に紀州藩主・徳川慶福を推しているのが「南紀派」。
この「南紀派」は、佐野史郎が演じる井伊直弼を中心とした、主に幕政を取り仕切るメンバーで構成されており、伊武雅刀が演じる徳川斉昭たちと激しい対立を繰り広げていきます。
一概には言えませんが、この対立が起こった一つの要因としては、開国を進める直弼ら幕府官僚たちに反発した攘夷派の斉昭たちの反発が背景にあったものと考えられます。
「このままでは外国には勝てない」と冷静な判断をしているのに、弱腰外交だとか罵られてたら、そりゃ官僚たちもいい気はしません。
この記事では、幕末期に「一橋派」と激しい争いを繰り広げた「南紀派」のメンバーについての記事を紹介していきます。
「一橋派メンバー紹介」はこちら
徳川慶福(家茂)
まず紹介するのは「南紀派」によって次期将軍候補に祭り上げられた徳川慶福。
とはいっても徳川慶福自身は、特に何か行っているわけではなく完全に政治利用された人。
しかし、この徳川慶福は「南紀派」の勝利によって将軍に就任し、非常に人柄に良いエピソードを残しています。
ライバルの一橋慶喜は天才肌の人物だった反面、どこかサイコパスな一面を持っていますが、この徳川慶福はとても人間味溢れる将軍様。
下の記事では、そんなエピソードを含め徳川慶福(家茂)について紹介しています。
井伊直弼
「南紀派」の筆頭といえばこの人。彦根藩主・井伊直弼。
老中から大老に駆け上がり、「南紀派」を形成して安政の大獄で「一橋派」を大弾圧。
強引なやり方から、悪役のイメージがつきまとう井伊直弼ですが、この人はこの人なりの正義があったのだと思います。
あまり語られることはありませんが、日米修好通商条約の締結の際には、勅許なしでの調印に最後まで反対し、幕府内で孤立したり苦労もしてます。
下の記事では、井伊直弼の生涯について簡単に紹介しています。
松平忠固
上田藩主・松平忠固は、非常にクセのある人物。
老中であった松平忠固は開国派の急先鋒として活躍し、徳川斉昭との対立から「南紀派」に属してはいますが、同じグループの井伊直弼を利用して実権を握ろうとしていた節が見えます。
のちに条約勅許問題では、勅許なしでの条約調印を進めて井伊直弼と対立し、安政の大獄で「一橋派」と共に処分されてしまいます。
下の記事では、松平忠固のクセのある生涯を簡単に紹介しています。
水野忠央
紀州藩附家老であった水野忠央は、井伊直弼らとは違い大名ではません。
しかし、出世欲が強かったのか家老の処遇改善を訴え、妹たちを次々に大奥に送り込み地位を高めていきました。
大奥が「一橋派」を嫌っていたのは、徳川斉昭の素行が悪かったからだとも言われていますが、もしかすると大奥が「南紀派」に好意的であったのは、妹たちをうまく利用していた水野忠央のおかげなのかもしれません。
下の記事では、附家老にして「南紀派」の一躍を担った水野忠央の生涯について簡単に紹介しています。
長野主膳
長野主膳は、彦根藩士で井伊直弼の懐刀。
出自不明のうさんくさい人物ですが、朝廷とのつながりが深く、井伊直弼の側近として京都で公家たちに工作を行い「南紀派」の勝利に貢献しました。
しかし、井伊直弼が暗殺されると、長野主膳は彦根藩から責任をかぶせられ、バッサリ切り捨てられます。
下の記事では、流浪の国学者から井伊直弼の参謀まで成り上がった長野主膳の生涯について簡単に紹介しています。
九条尚忠
関白・九条尚忠は、「南紀派」に協力した公家。
今回の大河ドラマでは、この九条尚忠がいたからこそ「南紀派」が勝利したともいえます。
史実では、どこまで「南紀派」に協力していたかは分かりませんが、幕府寄りの立場を貫き通す姿勢は史実においても同じ。
下の記事では、九条尚忠の生涯について簡単に紹介しています。
堀田正睦
佐倉藩主・堀田正睦は、厳密にいうとはじめ「南紀派」に属して、のちに「一橋派」に寝返った人物。
寝返ったというと聞こえは悪いですが、阿部正弘から老中首座を譲られて矢面に立たされた堀田正睦の苦悩は、誰にも理解してもらえないところだと思います。
堀田正睦は、井伊直弼とはマブダチというような仲だったようですが、幕政を取り仕切る責任者として派閥抗争を収束させるため、「一橋派」の松平慶永の大老就任を進めて両者の間を取り持とうとしていました。
しかし、大老には井伊直弼が就任し、直弼によって安政の大獄で処分されてしまうという可哀そうな堀田正睦。
井伊直弼は、少ししてから堀田正睦を復帰させる気もあったようですが・・・。
下の記事では、「南紀派」、「一橋派」の間に挟まれ、条約勅許問題に苦悩する堀田正睦の生涯について簡単に紹介しています。
本寿院と歌橋
13代将軍・徳川家定の実母である本寿院と、乳母である歌橋は大奥で絶大な権力を持った女性たち。
「一橋派」の島津斉彬の養女であった篤姫を大奥に迎えてはいますが、この二人は完全な「南紀派」。
というのも、一橋慶喜の父・徳川斉昭は大奥からとことん嫌われていたから。
さらに「南紀派」に協力することを決定付けたのは、家定が病床にあった際に慶喜はお見舞いに来ず、徳川慶福はちゃんとお見舞いに来たからです。
女性の気持ちを量ることができなかった「一橋派」の完全敗北でした。
下の記事では、将軍後継者問題でも大きな影響力を持った大奥の本寿院と歌橋について簡単に紹介しています。
その他「南紀派」
上記に紹介した人物以外にも、「南紀派」と呼ばれるメンバーは存在しています。
ビックネームでは、会津藩主・松平容保。
他には、高松藩主・松平頼胤など
これらの「南紀派」については、必要があれば随時追加していきます。
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